郷原信郎著「思考停止社会」を読む

本日は、この2月に出たばかりの新しい本、郷原信郎氏の「思考停止社会―『遵守』に蝕まれる日本」を読むことにいたします。

最近「法令遵守」の声が高くなっております。そして、マスコミが声高にたたく一部のケースには、以前のこのブログでもご紹介したように、違和感もあります。同書はそれが故に、日本社会の活力が失われている、と指摘いたします。

まずは内容のご紹介とまいりましょう。同書はいくつかのケースを扱い、最後にマスコミの問題と、社会的な問題点について論じております。章立ては次のようになっております。

第1章 食の「偽装」「隠蔽」に見る思考停止
第2章 「強度偽装」「データ捏造」をめぐる思考停止
第3章 市場経済の混乱を招く経済司法の思考停止
第4章 司法への市民参加をめぐる思考停止
第5章 厚生年金記録の「改ざん」問題をめぐる思考停止
第6章 思考停止するマスメディア
第7章 「遵守」反是思考停止につながるのか
終章 思考停止から脱却して真の法治社会を

まず、第1章で扱われますのは、不二家、ローソン、伊藤ハムで発生いたしました食の偽装問題です。

不二家では、消費期限切れの牛乳をシュークリームに使用していたことが発端となり、激しいマスコミの攻撃にさらされます。しかし、この牛乳の使用に当っては菌の検査もしており、安全上の問題はまったくなかったことです。また、その後TBS「朝ズバッ!」で報道されました、返品チョコレートの再使用という問題は、どうやら報道自体が捏造であったようで、マスコミの不二家に対する扱いにはおおいに問題があったといたします。

この捏造報道の問題については、後ほども触れられておりますが、関西テレビ「あるある」によります「納豆を食べるだけで痩せる」という捏造報道の際にはきちんとした調査を行った結果、放送局が処分を受けているのに対し、TBS「朝ズバッ!」のケースでは、事実上TBSが誤報を認めているにもかかわらず、事実関係はうやむやにされ、TBSはさしたる処分も受けておりません。

関係者が顔を隠して証言するというパターンは、岐阜県庁裏金に関するバンキシャの捏造報道事件と似ております。虚偽の告発を受ける対象に対して何らかの恨みを持つ人物が、虚偽の証言で告発を行い、これにマスコミが気付かずにそのまま流してしまった、というパターンでしょう。

不二家も一時は労使間に対立がありましたので、会社に対して不満を持つ人物がいたところでなんら不思議はありません。裏を取るという、ジャーナリズムのイロハがそこには抜けておりました。

それにしても、その後の対応を見ておりますと、マスコミの対応は全然違います。役所を誹謗する誤報に対しては平身低頭謝罪するのに対し、企業に対する誤報は軽く誤るだけ、納豆ダイエットのように、国民に誤った情報を与えた場合はきちんと調査をいたします。

ふうむ、このマスコミの対応の差は、まさに士農工商であり、士に相当する役所には弱く、農に相当する国民には誠意を見せ、商に相当する企業はぞんざいに扱う、というわけですね。これは、マスコミの生活の知恵であるのかもしれませんが、職業差別の意識もそこにはあるように、わたしには思われます。

ローソン、伊藤ハムのケースも、事実上まったく問題のない食品を店頭から回収しております。伊藤ハムのケースでは、保険所の判断に問題があったものと考えられるのですが、これも偽装に厳しい(無条件に反応する)社会情勢を反映してのものであるといえるでしょう。

わが国でもかつて公害、薬害、有害食品がさまざまな問題を起こし、企業側がこれをひた隠しにするという問題がありました。中国の粉ミルクの事件などをみましても、健康被害を招きかねない問題に関しては安全サイドで行動することは正しいでしょう。

それにしても、まったく問題がないとわかっている状況下で、単なる形式上の問題だけで回収に走り謝罪するというのは、少々おかしな世界です。実質を判断し責任を負うという行為は、己の判断力に相当な自信がなければできないのに対し、形式の判断は馬鹿でもできる、という事情もあるのでしょう。

もう一つは、先週のブログでも述べましたように、わが国の文化が「形式を重視する」文化であるということも、このような傾向に拍車をかけているものと思われます。

これは、第3章で扱われております「経済司法」の問題でより一層深刻になります。

今日ではわが国も国際会計基準に合わせる方向で動いているのですが、この一つの公準が「実質優先」つまり、“Substance over form principle”であるのですね。で、この言葉は“Economic substance over legal form”すなわち「経済的実態は法的形式に優先する」という形でも述べられており、経済司法においては、法の条項解釈に先立って、経済的実態に対する分析がまず必要となります。

ライブドアの事件をめぐっては、わたしも釈然としない思いを抱いておりますし、同書に述べられた村上ファンド事件に対する司法判断の以下の部分にも驚かされます。

村上ファンド事件判決の中で印象的なのが、「ファンドなのだから、安ければ買うし高ければ売るのは当たり前」との村上被告の言葉に対して、「このような徹底した利益至上主義には慄然とせざるを得ない」と述べている点です。

この司法当局の発言のほうがよほど慄然とせざるを得ないとわたしには思われます。そもそもわが国は市場経済で成り立っている国家であり、安いと思えば買うし、高いと思えば売るという、まさに「利益至上主義」がわが国の経済システムの根幹です。これを否定してなんとも感じない裁判官には「経済的実態」の把握などできるはずはなく、経済事件を裁くことなど初めから無理というものです。

ライブドアに対する検察・司法の考えが似たようなものであるといたしますと、この事件を扱ったこと自体に問題がありそうです。確かにホリエモンは人格高潔とは言い難い人物ですが、事業家としての見識は高く、このような人物が輩出してこそわが国の経済は新しい時代に適合できるとわたしなどは考えております。

これにたいして、若造がなにを、などというある種のルサンチマン(妬み、嫉み)に突き動かされて、さしたる理由もないままに、とにかくつぶしてしまえなどということになりますと、わが国は未来を失ってしまいます。

このようなケースでは、無理やり法を適用するというのではなく、これとまったく逆の、摘発には慎重の上にも慎重を期す、という姿勢が大事だったのではなかろうか、とわたしは思う次第です。

その他、同書で擁護されておりますのは、耐震強度偽装事件、厚生年金記録改ざんなどですが、これにたいする同書の記述は少々かばいすぎとの印象をわたしは受けます。

確かに規制強化以前に建築された耐震強度の低い建築物が今日多数存在していることは事実でしょうが、だからといって、規制強化以降に建てられた違法建築を放置してよいということにもなりません。データの捏造なども、あってはならないことであり、そうなるに至った理由があるにせよ、これは許されるものではありません。

また、厚生年金記録の改ざんは、仮に加入者に有利な改ざんであったとしても、規則を逸脱した行為が許されることにはならないでしょう。なにぶん、年金を扱う社会保険庁はお金を扱う役所であり、その手続きの規約は特に厳格に守られなければなりません。

そもそも、人口1億人少々のわが国において、その半分近い5,000万件の年金記録が行方不明になったということがむちゃくちゃな話であり、それが長年放置されてきたことも信じられない話です。このような事態が明るみに出た時点で、即刻社会保険庁は廃止し、金銭の取り扱いを国税局に移管するなどの、制度切り替えの必要がありました。

トップに相当する枡添厚生大臣が厳しい姿勢を打ち出したことを、民間企業の社長と比較して厳しすぎると同書は書くのですが、大臣は国会に対して、国民に対して責任を負う立場である以上、組織の不始末に厳しい立場を示すことは当然のことである、とわたしは思います。

と、いうわけで、同書に書かれましたことは、いくつかの点で納得できない部分もありますが、おおむねは妥当であるとの印象をわたしは受けました。

さて、同書の指摘いたしますわが国に蔓延する「思考停止」を回避するために、同書は最後の章で「社会的要請に応えること」を重視すべき旨を主張いたします。

ただ「社会的要請」といいましても、これをだれが判断するかが難しいところであり、形式的には「法を遵守することが社会的要請である」ともいえてしまいます。そうなりますと、これだけではなんら前には進みません。

ここははっきりと、「法律上の文言よりも実態を優先すべき」との公準を、すべての人々が認識することが重要である、とすべきではないかと思います。もちろん、実態に即さない法や規約はこれを改める不断の努力も必要なのであって、実態に即さないから捏造すればよいというわけではありません。

実態の判断には、形式上の判断を超える能力が要請されます。これまで形式重視で運用していた組織が基本理念を切り替えることに、さまざまな困難があることは想像に難くありません。しかし、だからといって形式主義をいつまでも踏襲し続けていては、わが国に未来はありません。

それが困難な長い道のりであろうとも一歩ずつ前に進む、ここはそんな考え方でやっていくしかないように思う次第です。

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