世界経済危機と「誠実条項」への流れ

中央公論の8月号に、元駐日ドイツ大使を務められたヘンリク・シュミーゲロー氏による、「世界経済危機脱出の鍵はアジアと欧州」と題する興味深い論文が掲載されております。

まずこの論文の要約を簡単にご紹介しておきましょう。

・米国の住宅バブルの根底には、JPモルガン・チェース社の定量分析専門家が2000年に発表した住宅ローンリスク計算手法があった。

・この手法は、不動産ブームという特殊な時期の住宅価格統計に基づいたもので、不動産価格が長年の統計的傾向を超えて、継続的に上昇することを前提とした、欠陥のある手法であった。

・サブプライムローン債券にCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)を組み合わせて信用力を高め、他のローン債券と組み合わせて細分化したものが資産担保証券(ABS)として販売され、これが格付け機関からAAAの評価を得たことから、全世界の投資機関がこの証券を買うこととなった。

・サブプライムローンの金利が当初2%の「勧誘金利」から8%の契約金利に移行した際、借り手がこれを払いきれなくなり、2007年にサブプライム貸付機関のひとつが破綻したことで、住宅バブルが弾け、ABSは「毒入り資産」と化した。

・その1年後、米財務省とFRBはリーマン・ブラザーズの破綻を容認し、全世界の金融バブルが弾けた。

・米国の「貪欲な消費」と「過剰な負債」と「無謀な投資」が停止したことからアングロサクソン諸国の巨大な消費市場が消滅し、世界各国の輸出が激減して、製造業にも大きな打撃を与えることとなった。

と、ここまではこれまでのおさらいで大方の共通認識なのですが、解決策となりますと対立する部分があります。しかし、流れは「誠実条項」を重視すべきであるとの方向に傾きつつある、と著者は主張いたします。

この「誠実条項」は、欧州やわが国のような大陸法の基本理念である一方で、英米法には欠けている概念です。この対立を如実に物語っている部分を同論文から以下に引用いたしましょう。

「住宅購入者は、ローン契約書を読むべきだった。それが契約の要諦だ」と英米法判事なら判断するだろう。そして欧州やアジアの法律家も、現代のあらゆる民法に盛り込まれているローマ法の原則「合意は守られなくてはならない」を思い浮かべて、直感的にこれに賛成するだろう。

これに対して、金融倫理重視派は疑問を呈するはずだ。もし、自宅の価格と賃金が想定された通りの上昇を続けなければ、差し押さえられる危険があったわけだ。未経験の借り手をそんな危険にさらすことは、非道徳ではないのか。そうしたローンを「資産担保証券」という名前でひとまとめにして機関投資家に売りつけることは、信頼の破棄ではないのかと。

フランスやドイツ、日本などの大陸法典は、こうした質問に対する答えを持つ。同法典は、市場参加者の「野生」を、義務的な一般条項によって緩和し、契約者双方が誠実に交渉することを要求している。これに反して英米法判事は、交渉の局面における契約当事者の行動を、そうした道徳基準に基づいて抑制することを、常に断固として拒否してきた。これは、何世紀もの擦り合わせを経てもなお、英米法と大陸法の間に残る数少ない重要な相違の一つである。

この相違も、英米法の枠内に「誠実条項」を追加する方向に変化しつつある様子です。同論文は以下のように記します。

全米50州で採用されている統一商法典ではすでに、「倫理を法律に変える」経路となっており、少なくとも債務不履行の規定の中に、当事者が別の取り決めをしていない限り、「誠実を前提とする」ことを定めている。

と、いうわけで、一つ流れが変化している様子です。

同論文では、この経済危機の解決手法として、ローマ法の「事情変更の原則」、つまり状況の死活的な変化が起きれば、契約を強制することはできない、という原則を使うのがよいのではないか、と提案いたします。

事情が変わったのだから、金利を「勧誘金利」のままで据え置き、差し押さえも猶予する、金融機関の幹部に対する高額のボーナスも支払う必要はない、と考えるべきであるというわけです。

確かに、住宅を差し押さえるから住宅の価格がますます下落するのであって、住宅が売れない一方でホームレスが増えるというのも、社会的にはおかしな話です。

マルクスの「経済学・哲学草稿」には、首になって石炭が買えない炭鉱夫の話が、資本主義の矛盾として紹介されています。彼が炭鉱を首になったのは、石炭が過剰となって石炭価格が低下したためであるというのですね。

こういった問題は、事情変更の原則と誠実条項を使えば倫理的な形で解決されるのですが、法と契約のように言語化された確固たる基準があるわけではなく、これによって損失をこうむる人たちからは多数の訴訟が起こされることも覚悟せざるを得ません。

結局のところ、倫理は論理に優先するという原則を常識とすること、その前提として、倫理は論理の枠外にあるというヴィトゲンシュタインやカントの命題を受け入れることが必要ではなかろうか、と考える次第です。

シグナル・プロセス・ロジックの企業理念は、少々普通でないことを書いたつもりですが、これがあたりまえとなる日も近そうです。


以前のブログで、デカルトはコギトとは書かなかった、と記しましたが、これは間違いでした。

たしかに、Wikipediaには、デカルトはフランス語でこの言葉を書いたのであって、これをコギトというラテン語に翻訳したのはメルセンヌ神父であると書かれております。

しかし、この記述はデカルトの「方法叙説」に関しては正しいのですが、デカルトは他の書物も書いておりまして、「哲学原理」は、デカルトがラテン語で書いたものをクロード・ピコ神父がフランス語に翻訳しております。

で、こちらのデカルト自身によりますコギトの記述は“ego cogito, ergo sum”と、主語egoが入っております。

ラテン語は動詞の格が厳格に定められているため、一般的には主語は不要です。しかし、主語を強調したい場合はあえて主語を記します。

この場合のデカルトの主張は、「思惟する私自身の存在」であって、他の何者の存在でもありません。したがってここは主語が強調されてしかるべきところであり、egoを入れることは必然的なのであろうとわたしには思われます。

結局、以前のブログでご紹介いたしましたように、養老孟氏の「唯脳論」におけます、デカルトが「コギト・エルゴ・スム」と主語を省略したのは自分という存在を議論に含めたくなかったからである、との主張には、いろいろな意味で誤りが含まれているものと推察されます。