Newton別冊「虚数がよくわかる」を読む

先日本屋をのぞいていたら、雑誌Newtonの別冊で「虚数がよくわかる」と題したものが平積みになっておりましたので購入いたしました。

なにぶん、このブログでは以前より「時間は虚数的にふるまう」ことを自然科学の根底をなすべき第3原理として提唱しております。虚数がよくわかるというのであれば、時間に関する言及も当然あるはずというのが、同書を購入した背景にはありました。

数の実在性

で、その内容ですが、虚数が出てまいりますのは1/3ほど進んだところでして、それまでは有理数と無理数に関する議論等が述べられております。同書のこの記述は、図も美しく、初心者が数の基本を理解するのには良い本であると言えるでしょう(もう少し安ければいうことはないのですが、、、)

虚数に関する記述もおおむね妥当なのですが、「虚数の実在性」に関わる議論はちょっといただけません。

そもそも、こういうことを議論するのであれば、それ以前に「数の実在性」を議論すべきであって、じつは同書の記述でも数の実在性を否定しているのですね。たとえば同書117ページには以下の記述があります。

結局、「数」というものはすべて、自然界にそのまま実在するものではなく、自然界を記述するために人間が頭の中につくった「モデル」あるいは「概念」だといえるでしょう。その意味で、数は一種の「言語」であるといえます。そして、物理学とは、「自然界に現れる法則を、数学という言語を使って描写する営みである」ということができます。

つまりは、同書は「数の実在性」を否定して、「数とは自然界にある存在ではなく人間精神によって形成された概念である」としております。そうなりますと、「虚数の実在性」という議論もあまり意味がなく、「概念としての虚数」は否定すべくもありませんから、虚数という概念が物理法則の描写に適しているか否を議論するしかありません。

で、その有用性をさんざん述べているわけですから、あらためて「虚数の実在性」を否定する意味があるようには思われないのですね。

救い難い誤り

さて、同書の最大の問題は、時間が虚数的にふるまうという点をあっさり否定しているところです。これは102ページの記述では以下のようになります。

ミンコフスキーが提案した虚数時間は、あくまでも“数学のトリック”にすぎない。我々が過ごす時間はやはり実数であり、決して虚数ではないのである。

こう述べた後に、F = m αという、力は質量と加速度の積に比例するという数式をもちだして、加速度には時間の二乗が分母に入っているので、時間が虚数なら加速度がマイナスになってしまう、だからおかしいと主張いたします。

この主張は二つの意味で間違いがあります。それも、相当に初歩的かつ基本的な誤りであり、もしもこんなことをいう人が物理学を他人に教えているのであれば、即刻これをやめていただかなければなりません。

誤りの第一は、物理法則というものは自然の記述なのであって、物理方程式は自然を記述するようにつくられるのだということです。加速度が逆に働くのが自然現象と矛盾するというのであれば、方程式を修正すればよいだけの話なのですね。

上の主張をした人は、F = m αという式がすべてのものに先立つ絶対的な真実であると考えているのではないでしょうか。そうでなければ、自然現象が方程式に反するなどということを、時間が虚数的にふるまうか否かを判断する材料になるなどと言えるはずはありません。

これは、物理法則に対する基本的なスタンスの問題なのですが、実はそれ以上に初歩的な誤りが上の主張にはあります。

F = m αという式は、確かに加速度αに時間のマイナス2乗が掛かっているため、時間を虚数にすれば符号が反転いたします。しかし、物理方程式というものは、右辺と左辺で単位の次元が一致していなければなりません。これは、おそらく高校の物理の時間で教えているのではないかと思うのですが、最近はどうなのでしょうね。

で、右辺と左辺で単位の次元が一致しているのであれば、右辺の単位に時間のマイナス二乗が含まれているのであれば左辺にも同様に含まれていなければなりません。だから、時間を虚数にして右辺がマイナスになるのであれば、左辺もマイナスになるはずで、両辺の符号が反転したところで式と現象の対応関係は何ら変わらないということになります。

というわけで、時間が虚数的にふるまうとするミンコフスキー流の扱いは、何らおかしなものでもないということがご理解いただけるかと思います。そして、この考え方を量子力学に応用すれば、少なくともシュレディンガーの方程式から虚数単位iが消えうせることは以前のこのブログで議論した通りです。

なぜ虚数時間が嫌われるか

虚数時間というアイデアを用いれば物理学は非常にエレガントな記述が可能となるにもかかわらずそうしないのはなぜか。虚数時間を否定する物理学者の記述に、非常に稚拙な言説が目立つのはなぜか、ということを考えますと、これが今日の物理学者の無能によるものであるということは非常に考えにくく、物理学以外の要因が働いているのではないか、と考えるのが自然でしょう。

ファインマンの無理な記述(距離の二乗がマイナスになったら、距離を虚数と呼ぶのではなく、時間的に離れていると言いなさい)や、ディラックのテンソル記法など(共変テンソルと反変テンソルとで時間項の符号を反転させる)の無理な扱いを見ましても、また今回のNeutonの、物理学者としてはあまりにも恥ずかしい、稚拙な議論を見ましても、これが物理学者の本心からの物言いであるとは思えないのですね。

で、その物理学以外の要因に関しては、憶測の域を出ないのですが、「ミンコフスキー」というロシア風の名前が嫌われたからではなかろうか、ということをこのブログでは以前議論いたしました。

なにぶん、物理学が急速に進展したのが冷戦の真っただ中。核兵器という物理学の最先端の知見に基づく兵器が彼我の優劣を決定しておりました。そんな時代に、物理学の根幹部分にロシア風の名前が出てくることは、特に米国の物理学者には我慢が出来なかったであろうことは想像に難くありません。

そして、近年の物理学が巨額の資金を必要とし、国家の支援が不可欠であることを考えますと、政治的なバイアスが物理学の世界に色濃くかかっていたところで、なんの不思議もありません。

しかし、既にソヴィエト連邦は崩壊し、冷戦は過去の遺物となりました。もはやミンコフスキーの名におびえる必要は全くないのですね。

そうなりました今日、物理現象のよりエレガントな記述のために、虚数時間というアイデアが再び脚光を浴びてもよいのではなかろうか、と私は考えている次第です。

虚数時間の物理学、まとめはこちらです。