日本にだって受け継がれております、ジョブズの精神

池田信夫さんのアゴラの記事はなかなか参考になるものが多いのですが、対抗文化の敗北と勝利と題する記事は少々首をかしげたくなります。

カウンターカルチャー

池田氏の主張したいことは、おそらく、「エコロジー運動の求めた「純粋な自然」などというロマン主義は、対抗文化の夢見たユートピアにすぎない」の一言に集約されているのでしょうが、対抗文化(カウンター・カルチャー)がすなわちエコロジーではないことは池田氏自身が書かれたとおりでして、ここでジョブズをもちだしてエコロジー運動を云々するのはお門違いであるように思われます。

カウンターカルチャーが指向したのは、反権威、反統制、反管理であって、そういう意味では自然が一つの理想的状態であることは確かです。だからカウンターカルチャーを標榜する人たちの中に自然を指向する人々がいたところで何の不思議もありません。しかし、人工物の中にも権威もあれば反権威もあるのが現実です。

マイコン登場の衝撃

コンピュータに関しては、厳格に管理されたメインフレームの時代にユーザが自由に扱えるシステム(マイコン)が登場したわけで、これは素晴らしいことと受け止められたのも当然でしょう。マイコンの初期の時代を最近の方にご理解いただくのは難しいかもしれません。このあたり*を読んでいただくと雰囲気がつかめるかもしれません。

(*:Stay foolishというのはこういうことを言うのでしょう。これは決して悪口ではございません。この発表は夏のプログラミング・シンポジウム 2007のセッション7「BASIC+機械語」で行われたものです。情報処理学会もなかなかやりますね。)

重要なポイントは、ユーザが自由にいじれるということ、内部がユーザに見えている、ということです。「ソースが共にあらんことを」はgnuやlinuxを手掛ける人々の共通の願いなのですね。

道具をつくる、ということ

人間が動物と違う点は道具を操ることだ、などと言われるのですが、猿はロープを上り、イルカはボールをはじき返し、猫はくぐり戸を開け、ラッコは石で貝を割ります。人間が動物と違うのは、道具を使うことではなく道具を作ることです。道具を扱う対象を理解し、道具の成り立ちを理解し、はじめて人は道具を作ることができます。

管理が徹底した世界で人に許されるのは道具を使うことだけであって、新しい道具を作りだしたり、これを改良したりすることは許されません。このような状況に我慢できないと感じるのは、ある意味当然であると言えるでしょう。

アップルとファミコン

アップルは、営利企業ですから、コンピュータの内部情報をあまり公開してはいません。しかし、初期のアップルの内部はかなりの程度まで知られており、ハードウエアを直接操作することもある程度熟練したユーザなら容易に行うことができました。

で、APPLE IIのCPUは6502という、あまりメジャーではないチップを使用していたのですが、同じチップをなんと初代のファミコンが使用していたのですね。

と、なりますと、ファミコン開発の背景がおおよそ透けて見えるというものです。つまりAPPLE IIに嵌ったfoolishな奴がいた。で、ファミコンができた、と、そういう憶測が成り立つわけです。実際のところがどうだったかはわかりませんが、そういうことであったといたしますと、我が国が何も生み出さなかったなどということはなく、きっちりジョブズの精神を受け継いだ人たちもいたということも言えるでしょう。

実のところ、上で引用いたしましたリンクはソニーコンピュータエンタテイメントの方、つまりはプレイステーションを作っている会社の方でして、似たような人々はわが国のそこらじゅうにいるであろうこと、想像に難くはありません。

つまるところ、日本もそれほど捨てたものではない、と言えるのではないかと思いますよ。

stay foolish

ところで、ジョブスの“stay foolish”、良い言葉ですね。foolishなんて言いますと日本語に訳せば馬鹿、決して良い意味ではないですし、stayということはつまり現在のお前は馬鹿であるといっているわけで、こんな言葉を投げかけられたら怒り出す人がいても不思議はありません。

しかしこの文脈での“馬鹿”は決して非難されるべきような状態ではありません。ジョブスの言葉は「ディオニュソス的であれ」といっているわけであって、ニーチェが唾棄した畜群とは異なる人生を歩むことを、若い人たちに説いていたのですね。

ジョブズの人生なり思想は、このブログとも相通ずるものがあるように私には思われます。夭逝した天才のご冥福をお祈りいたします。