最近のアゴラから

最近アゴラウォッチャーみたいになっておりますこのブログですが、最近のアゴラからいくつかの記事を取り上げて、所感を述べておきましょう。

まずは、ビルゲイツ氏の「とてつもないイノベーションの可能性がここにある =ビル・ゲイツ、福島事故後の原子力エネルギーを語る(上)(下)」です。

この主張につきまして、私も完全に同意です。ただ、アゴラがこの記事を載せております理由は、おそらく、ビルゲイツ氏も原発には賛成である、との観点からではないかと思うのですが、その前提として安全性の確保があることをビルゲイツ氏も語っております。

問題は、我が国の原子力発電所の安全性が国際基準からみても極めて低いことにある、と私は考えております。以前も述べましたように、IAEAの想定する事故の確率は10万炉年に1回なのですが、我が国の原発の事故確率は1000年に1回というのがこれまでの実績です。

このような結果に至ったことが、たまたま非常に運が悪かったからであると言えるなら、我が国の原発の事故確率も国際基準並みということになるのですが、このような見方はまず疑ってかからなければいけません。と言いますのは、滅多に起こらないことが起こることなど滅多にあるものではないからでして、たいていの場合は起こっても不思議はないことが起こるものだからです。

そういう観点から福島の事故を振り返れば、1000年に一度の津波が事故の原因なのであって、我が国の18か所に原発が立地しておりますので、55年に一度はどこかの原発を1000年に一度の津波が襲う計算となり、福島原発が造られてからでもかれこれ40年ほどたっておりますから、どこかの原発が1000年に一度の津波に襲われることは、何ら珍しい出来事でもありません。

そう考えますと、福島の事故の直接の原因は1000年に一度の津波のリスクを無視したこと、それを良しとした地震学者は、イタリアの地震学者よりもはるかに罪深い人たちであるわけですし、さて今日臨海部に設置されております我が国の原発は、果たして十万炉年に1度などという事故確率で済んでいるかどうか、甚だ疑わしく思われるわけです。

一方で、ビルゲイツ氏も主張いたしますように、原発は将来のエネルギー技術として重要なものであると、私も考えております。これを日本の国民が受け入れるためには、過去の誤りを誤りと認め、安全性をきちんと評価して、廃炉にすべき原発は、経済事情に関わらず廃炉にすること、そして改めて安全な原発を建設するというステップを踏む必要があると私は考えております。

現時点では脱原発が国民の多数派であるように思われるのですが、これがいかなる形でも原発反対であるのかどうかはよく見極める必要があるでしょう。現在の電力会社や財界が、現在の原発にわずかな改良を加えただけで、安全論議を政治的に捻じ曲げて運転再開を目論んでいる、と多くの国民が考えている結果、脱原発との立場をとっているように、私には思われるわけです。

現時点で原発の運転再開を無理押しすることは、将来の日本のエネルギーを考える上では決してプラスではない、むしろその可能性を奪うことになるのではないでしょうか。

既存の臨海部の原発は全て廃炉にすること、将来のエネルギーのために安全性に十分配慮した原発を新設すること、これがおそらくは我が国の進むべき道であると私は考えているのですが、これは橋下氏の主張する脱原発とも、石原氏の原発続行との主張とも整合し、ひょっとすると第三極の原子力政策の落とし所になるかもしれません。

これに類似した記事として小野章昌氏の「現実から程遠い「革新的エネルギー・環境戦略」- 原発ゼロの夢想」と題する記事があります。これもまったく同感。現在の政府の主張は論理が破たんしております。しかし、「原子力・エネルギー関係者は、国民、立地・消費地自治体、さらには世界の間で、日本の原子力の信頼を築き上げるために、長年かけて努力を重ねてきた。それが東電の福島原発事故によって一挙に失墜したのは、誠に痛恨の極みである。これを回復する為には、行政、事業者そして学術界が責任と役割を明確にした地道で周到な行動を興すことが必要であり、それによってしか将来に亘ってのわが国のエネルギー安全保障は成立しないという覚悟を持たなければならない」との結論ははなはだあいまいであるように私には思われます。

結局のところ、福島の事故に関しては「日本の原子力の信頼を築き上げるために、長年かけて努力を重ねてきた」との一点が果たして真実であったかどうかも厳しく問い直される必要があるのではないでしょうか。特に原子力発電の危険性に対する指摘を無理やり抑圧してしまった経緯を考えますと、「長年かけて重ねた努力」とは「反対意見を抑圧する努力」であったのではなかろうかとの疑惑すらあり、それが果たして原発の安全性にプラスであったかどうかは疑わしく、むしろその努力が福島の事故を招いた可能性だってあるように私には思われます。

すでに、原子力村とか、御用学者などという言葉も一般化してしまっております。我が国のエネルギー安全保障のためには、自らのあり方を省みる、真摯な姿勢がまず必要であり、これなくしては国民の専門家に対する信頼を取り戻すことは難しく、政治的に原発の利用は極めて困難な状況になってしまうように私には思われます。

学術界も、そのあるべき姿に戻ること、これをまず考えるべき時に来ているのではないでしょうか。