「禅とオートバイ修理技術」を読む

本日は、ロバート・パーシグの「禅とオートバイ修理技術(上)(下)」を読むことといたします。

インド思想のオブジェクト指向

なぜこんな本を読んだかといいますと、以前のこのブログで 立川武蔵著「はじめてのインド哲学」を読んだのですが、その中で以下の点に興味を惹かれました

98ページから99ページにかけて、実体と属性の関係が図解されております。壺には、色とか重さだとか下降させるなどの属性が付属しており、それぞれの属性は「色性」、「重さ性」といった普遍の基体となる、というのですね。さらに、壺はその構成要素に和合し、構成要素は原子に和合する、というわけです。

これを読みまして、どこかでみたような話だ、と思いました。そう、オブジェクト指向プログラミング、ですね。

オブジェクト指向プログラミング、と言いますものは、操作単位でありますオブジェクトの関係を持った集まりとしてプログラムを記述いたします。たとえば、ウインドウがオブジェクトであり、これには幅や高さといった属性が付属している他、ウインドウ上の構成要素、ラベルだとかボタンだとかイメージだとかといった、さまざまなオブジェクトが付属いたします。ボタンというオブジェクトは、位置や高さや幅や色やキャプションといった属性が付属し、押したときの動作(メソッド)が付属いたします。

で、面白いことは、こういったものは、プログラマーが考える概念上の存在であって、プログラムが実行される際のオブジェクトは、主記憶中の領域として実在します。つまり、デカルトの言うように、あらゆるものは主記憶中の広がりとしてのみ実在し、色やフォントや幅や高さなどはそれを見た人の心の中に形成される属性である、ということなのですね。あ、これはもちろん、コンピュータプログラミングの場合の話、ですよ。

逆に、プログラマがソフトウエアを作成する際は、主記憶のアドレス云々といったことはいっさい配慮せず、抽象化されたデータのみに着目して作業が進められます。

で、オブジェクトはさまざまなオブジェクトの組み合わせとして記述されるのですが、これをばらしていくと、次第に単純なパーツに分解され、最終的には原子ならぬビットにたどり着く、というわけです。

インド哲学に言います「色性」は、オブジェクト指向で言えば「カラー型」というわけで、こちらも対応が取れております。で、「属性性」とでも称すべきものは、サイズと演算定義のリスト、ですね。

オブジェクト指向プログラミングが成功を収めている背景には、人の自然認識に近い体系を採用していることがあると、私は考えているのですが、実にインド哲学(ヴァイシェーシカ学派)がほとんどオブジェクト指向プログラミングのような説明を世界に対して与えている、ということに驚きを覚えた次第です。

でもこれは、偶然の一致なのでしょうか。ひょっとして、オブジェクト指向プログラミングがインド哲学をベースに考えられていたのかもしれない、という疑いを私は持ったのですね。

コンピュータ技術が急速に発展しましたのは1960年以降なのですが、その頃から米国西海岸を中心にヒッピー文化が広がっており、彼らはインド哲学を含む東洋思想に興味を惹かれておりました。コンピュータ技術発展の中心となりましたのも西海岸はカリフォルニア州のシリコンバレー。地理的、時間的に双方は重なり合っております。

“Zen and the Art”を冠する本の数々

もう一つ、私はインターネットのはしりの頃にインターネットの研究を始めており、当時読みました数少ない解説書の一つが「初心者のためのインターネット」だったのですが、その原題が“Zen and the Art of the Internet”。何で禅がこんなところに、という印象を持ったのですが、いずれにせよこの人たち、東洋思想に何らかのつながりを持っております。

しかしこの本、すごいですね。既に絶版となっておりまして現在は中古しか手に入らないのですが、その一冊が1150円はよいとして、もう一冊はなんと21,250円の値が付いております。私、実はこの本2冊も買ってしまい、一冊はクラスの友人に差し上げた(本代を無理やりつかまされてしまいましたが)のですが、もう一冊はどこかにあったはず。これは探し出して古本屋にもっていく価値もありそうです。(2016.6.13追記:上記古本価格は初出時の情報でした。現在はこの出品はなくなっております。)

ま、それはともかく、この“Zen and the Art of XXXX”という題名の書物は幾種類も出版されておりまして、XXXXの部分は主にコンピュータ技術に関するもの。なぜそんなことになったかといいますと、確かに東洋思想がこれらの人々に何らかの影響を与えていたこともあるのでしょうが、1974年に出版されました“Zen and the Art of Motorcycle Maintenance”がベストセラーになったものですから、柳の下のどじょうを狙った書物のネーミングということもあったのかもしれません。

そうなりますと、この元となった本がいかなるものであるか俄然気になるわけでして、それで読みましたのが同書、というわけです。

変速ギアに宿る神

さて、同書の内容ですが、確かに「」を冠した書名にふさわしい内容で、オートバイの修理技術を哲学のレベルで語る書物である、といってもさほど間違いはないでしょう。

最初に近い部分に、同書の問題意識が語られております。少々長いですが、この部分を引用しておきましょう。

「ビート族」や「ヒッピー」などという陳腐な決まり文句は、反テクノロジストや反体制派の人々のために造り出された合言葉であり、それは今後も継承されてゆくだろう。だが、ただ単に大衆用語を造り出したことによって一個人を一般大衆の中に組み込んでしまうことはできない。ジョンとシルヴィアは、大衆の中でむなしく佇んでいる人間ではないし、それぞれ自分の道を着実に歩んでいる。彼らがテクノロジーに対して反感を抱いているように見えるのは、実は孤独な群衆の一人になり下がってしまうことに抵抗しているからなのである。つまり彼らを一般大衆の中に組み込んでしまおうとする力が、テクノロジーと大いに関係していると思っているのだ。だからテクノロジーを嫌悪するのである。彼らはこれまで、そんな反感を抱きつつ、可能であればいつでも田舎へ逃避するといった受身の抵抗を繰り返してきた。だがいつまでもそう受身である必要はないのである。

私は、バイクのメンテナンスについては確かに彼らと意見をことにしている。だがそれは、テクノロジーに対する彼らの感情に共感できないからではない。ただ私は、テクノロジーを嫌悪するあまりそこから逃避することは、彼らにとって自滅的なことだと思っているのだ。ブッダや神が花びらや山の頂に住んでいるのと同じように、デジタル・コンピュータの回路やバイクの変速ギアの中にもそのまま真理が宿っているのである。そう考えなければ、ブッダの品位を汚すことになる――それはとりもなおさず自分自身を卑しめることにほかならない。

この部分の少し前で、著者と共に米国横断のバイクの旅をしておりますジョンとシルヴィアがバイクのメンテナンスを嫌う点で、バイクのメンテナンスに熱中する著者と考えを異にするということが語られております。テクノロジーを拒絶する考え方は“Back to the Nature”つまり「自然に帰れ」という、ヒッピー文化の一つのスローガンでもあります。これに対して著者は優しいまなざしで異議を申し立てているわけです。

クオリティー

同書は上下巻の長大な書物ですので、内容を語りますと終わらなくなってしまいます。ここでは、重要なポイントを取り上げて、これに対する私の批判をすることといたしましょう。

同書後半の重要なテーマとなりますのが「クオリティ」です。パーシグは、クオリティは理性や論理を超越した概念であるといたします。クオリティ(品質)という概念は確かに数値化することは難しいし、それが何であるのかを言語表現することも難しいのですが、確かに製品の品質といえば多くの人が理解する概念ではあります。

パーシグは、理性を客観に結びつけ、クオリティは主観にも客観にも属さない概念であるといたします。これはどうでしょうか。

ここで問題となりますのは、「客観」の概念なのですが、観察・操作の対象となるモノという意味での客観であればクオリティも客観世界にあるといえそうです。また、他者とも共通の理解可能な概念、つまり普遍妥当性という意味でも、クオリティは客観の要件を満足しております。

確かに、他者とのコミュニケーションには言語化が欠かせず、このためには理性の働きが必要であるともいえるでしょう。しかし、クオリティそのものが言語化できないといっても、「クオリティが高い」ということ自体は言語化されておりまして、これを聞いた人が同じものを見て同じように感じるのであれば、そこにコミュニケーションは成立して普遍妥当性を持つこともありえないではありません。

私には、パーシグが「客観・主観」と「理性・感性」を重ね合わせて理解しているように思われるのですが、実は、人の精神作用を「理性・感性」に二分化するという考え方は、おそらく間違っていると私は考えております。この考え方はカントに始まるものでして、彼は人の精神機能を「理性・悟性・感性」の三段階に分離しております。

理性とは、数値化、言語化された対象を論理的に扱う能力で、人間固有の能力です。感性は感覚知覚に感情が加わったもので、こちらはいわば動物的精神機能といえるでしょう。では「悟性」とは何かといいますと、知覚されたものが何であるかを判断する能力で、ある場合にはこれが言語化され理性の対象となるのですが、悟性のレベルでも処理がなされる場合があります。「理性」と「悟性」の差は、最近のことばでは「形式知」と「暗黙知」を扱う能力であるともいえそうです。

で、クオリティは「悟性」のレベルの概念である、というわけです。

最近の訳では「悟性」の代わりに「知性」という訳語が当てられています。しかし、知性には理性も含まれると解釈される危険性が高く、ここはやっぱり昔ながらの悟性と訳すのがよいように私には思われます。このことば、英語で言えばUnderstandingすなわち理解・納得する能力で、最近流行の「きづき(Awareness)」にも近い概念です。悟性ということばを嫌う一つの理由は、これが仏教用語で「悟りえる力」を意味することなのですが、こういう意味での「悟り」は理解・納得と同一線上にある概念であるように私には思われ、同じことばを用いることはさほど不自然には感じられません。

東洋的な世界観

パーシグが「客観・主観」のいずれにも属さないものとして「クオリティ」(「悟性」に相当)を捉えておりますのは、ひょっとすると東洋的な世界観に基づいた結果であるのかもしれません。なにぶん、本書の題名は「禅とオートバイ修理技術」なのですから。

以前のブログでご紹介いたしました鈴木大拙師の「東洋的な見方」によりますと、このあたりは次のように記述されております。

西洋は数が元になるから、まず主客の両観から始まって、次から次へと分化していく。……科学の発達から、技術の正確さ、巧緻さに至るまで、東洋よりは、ずっと進んでいる。それから組織を立てることが西洋の得意とするところである。したがって人間も機械の一部になり、組織の中に鎔けこんでゆく。本当の自由もなくなり、本来の創造力も減殺されがちである。これが西洋今日の悩みである。……

東洋式はこれと全面的に反対だ。一の数さえもまだ始まらない以前を見ようとする。主も客もない。われも汝もない。ローゴスもまだ面を出さぬ、「光あれ」のひと声もまだ発せられない、その当時の消息、いわゆる父母未発生以前の消息を端的に見てとらんとするのが東洋式の精髄である。

パーシグ氏の理解するところでは、その東洋式の価値観の中心にあるのが「クオリティ」であるということなのでしょう。そしてそれは間違ってもおりません。ただ、せっかくカントが悟性概念にたどり着いているのに、これをあっさり無視して東洋思想に走ってしまうことが私には解せません。西洋的知識人がなすべきことは、カント思想と東洋思想の橋渡しをすることではなかろうか、などと私は思ってしまいます。

研究現場に必要な“理性を超える力”

さて、あまりこまごまとしたことを突っ込んでおりますと話が発散してしまいます。そろそろ話をまとめにかかりましょう。

私は長年研究開発の現場におりまして、多くの優れた研究者の話を聞いたり、書物を読んだりしてまいりました。彼らが共通して重視するのが、言語化できない概念でして、ある人はそれをテイストと呼び、他のある人はそれをエレガンスと呼びます。クオリティもこれらに類似した概念で、言葉にはなっているものの、その実体が何であるかとなりますと、雲をつかむような話になってしまう、そんな概念が研究開発の第一線では必要である、ということなのでしょう。

そもそも、言語化し、数量化できるような概念は、もはやイノベーションとはいえません。存在しない技術、存在しない製品を新たに生み出すこと、これこそがイノベーションそのものであり、真の意味での研究開発のあるべき姿であるわけです。

言語化できない概念を重視するという考え方。これが、今日の世界で成功を収めているイノベーションの推進者と見事に重なり合っている、というのが今回同書をご紹介いたしました私の動機です。つまりは、アップルにせよ、グーグルにせよ、その成功の裏には東洋的思想に対する深い理解があったのではなかろうか、ということなのですね。

翻ってわが国についてみてみますと、グローバルスタンダードにまい進した多くの企業が衰退の道を歩んでおります一方で、なぜかトヨタだけは元気を保っております。これは、トヨタの一貫したクオリティ重視の姿勢とも無縁ではなかろう、と思う次第です。

そうなりますと、わが国の進むべき道はおのずと明らかでしょう。理性を重視するのではなく、悟性を重視すること。言語化、数量化の可能な評価軸だけではなく、それ以前の感性的な評価しかできない部分にも重きを置かなければいけない、エレガンスやクオリティをもっと重視しなければいけない、ということですね。そしてそういうことができる人間を育てていくこと、これなくしてわが国に未来はない、と私は考えております。

日本は元々東洋の国家であり、民族の心の奥底には東洋的な思考様式が脈々と流れております。ひとたび姿勢を変えれば、こんなことなどわけなくできると私は信じております。つまり、日本という国には、まだまだ可能性がある、というわけです。