ディオニュソスと三つの知性

先日のこのブログで、三つの知性についてご紹介いたしました。この部分を改めて示しますと次のようになります。

理性=研究者=LOGIC =論理力
悟性=芸術家= ART =発想力
感性=勝負師=MARKET=表現力

この三つの知性、以前3回((1), (2), (3))にわたってご紹介いたしましたニーチェの悲劇の誕生に述べられております三類型に対応するのではないか、ということに気が付きましたので、本日はこのお話をいたしましょう。

ニーチェが同書で紹介しております三類型とは次のとおりです。

アポロン的なるもの:美の世界
ディオニュソス的なるもの:陶酔の世界
ソクラテス的なるもの:理性的世界

そしてニーチェは悲劇の本質は音楽に代表されるディオニュソス的要素であると指摘し、人間もまたディオニュソス的に生きなければならないと鼓舞いたします。

ニーチェのこの主張は、その後の民族主義の高まりとドイツのナチズムへの傾斜を考えますと、素直に首肯することもできないのですが、研究開発の分野では、ソクラテス的とされます理性的な働きだけでは新しいものを作り出すことは難しく、ニーチェがディオニュソス的と呼んでおります要素も必要ではなかろうか、と考えておりました。

で、このニーチェの三つの類型は、最初にあげました三つの知性と見事に重なり合い、次のようになります。

理性=研究者=LOGIC =論理力=ソクラテス的なるもの
悟性=芸術家= ART =発想力=ディオニュソス的なるもの
感性=勝負師=MARKET=表現力=アポロン的なるもの

以前のブログで鈴木大拙師の「東洋的な見方」をご紹介しましたが、主客分離以前の姿を捉えようとしております禅のあり方が、まさに悟性重視の態度であり、研究開発に欠かせない視点ではなかろうか、と思うわけです。そして、以前のこのブログで述べましたように、このような東洋思想に影響されたヒッピー文化が、米国西海岸を発祥とする情報革命の根底にあった可能性も高そうです。

最近現象学についての書物を読んでいるのですが、フッサールも最後にはレーベンスヴェルト(英語ではlife world、一般に「生活世界」と訳されますが、「人の生きている世界」という本来のイメージがつかみ難い訳語です)重視の「自然的態度」に戻っております。このような回帰は、あの論理重視のヴィトゲンシュタインにも共通いたします。

多くの哲学者が最後にたどり着く、そして全ての学の出発点と考えられておりますこの地平は、実は「主客分離以前の世界」であり、まさに禅が対象とする世界であると同時に悟性が対象とする世界であり、研究者がまず向かい合わなければならないのはこの世界なのではなかろうか、と考えております次第です。


そういえば、馬鹿の種類は3種類ではなくて7種類でしたね。

これは、前回あげました論理力に欠ける馬鹿、発想力に欠ける馬鹿、表現力に欠ける馬鹿のほかに、論理力しかない馬鹿、発想力しかない馬鹿、表現力しかない馬鹿もおりますし、全ての力が欠如したどうしようもない馬鹿もいるわけで、合計すれば7種類。こうしてみますと、最初にあげました3種類の馬鹿などは、一つの力が欠けただけで二つも力を持っております、得がたい人材であるということもできそうです。

そもそも、天才以外はみんな馬鹿などというのもどうかしております。二つの知性をもつ人は、馬鹿どころか「できる人」でしょう。で、一つしか持っていないのが「普通の人」、何も持っていないのは、、、まあ、馬鹿といわれてもいたし方ありますまい。


その他、先日のブログで批判いたしました新田氏ですが、リカバリーショットを打たれてますね。でもまだちきりん氏のことを「グローバルマチョ子」などという失礼な物言いをされております。

新田氏がこの記事で紹介しておられます鈴木寛氏のダイアモンドオンライン記事では、鈴木氏は「これからの時代、プログラミング言語がわかり、英語をはじめとしたグローバルコミュニケーション能力、そしてチームワーキング力を持っているのかどうかが重要です。」と明確に語っておられます。これは新田氏がおちょくっておりますグローバルマッチョを教育目標に掲げていることに他なりません。

もちろん私も鈴木氏のこの目標こそが妥当であると考えているのですが、新田氏はこのあたり、どのように考えておられるのでしょうかね。まあ、だんだんとまともな方向に向かいつつあるように見えますので、いずれは新田氏もグローバルマッチョこそわが道、などと言い出すのかもしれませんが、、、