鈴木大拙著「禅と日本文化」を読む

先日「クレージーな人たちに乾杯」と題しましてジョブズの言葉を紹介しましたが、この中で鈴木大拙師が英語で書かれました「禅と日本文化」(北川桃雄訳)を引用いたしました。本日は同書の後のほうの一文をご紹介しておきます。こちらを読みますことで、「狂気」というものに関します大拙師の考えをより直接的に知ることができるでしょう。

人が「狂気」になったとき、偉大なことが成就されるとしばしば言われる……という意味は、人間普通の意識層では思想や観念が合理的に組織され、道徳的に統制配置されている。それであるから、ここではわれらはいずれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。すなわちもとより無害の市民で、合法的に行為する集団の一員であるから、その点では賞賛に値するのである。しかし、かかる魂には創造の性はなく、踏みなれた径を外そうという衝動もない。
……
偉大な魂の場合はまったくこれと異なっている。期待されてはいない。気狂いである。会いたいと思ったところに彼を止めておかれぬ。いつもなにか自分より大きいものを追い求めている。このなにか大きいものは、彼が真実自分に真摯でかつ真面目な場合、さらに高い意識の層に彼を押しあげて、さらに広い展望によって事物を眺めさせるようにする。かく自分が真にいる場所、いることができまたおらねばならぬ場所を知れば、彼はいまや自分に憑(つ)いている幻を成就し実現するため、「気狂い」になる。あらゆる偉大な芸術はこういう風にして製出された。芸術家は創作家として、われわれのように常套的(コンベンショナル)な方面にのみ心を動かしているものと違って、高次元の面に生きている。このより深い霊感(インスピレーション)の源泉に燧(ひ)口をつけることが、異常な方法論をもって禅のねらうところである。

ジョブズの言葉が表面的なきらいがあるのに対し、大拙師の言葉はよりより深いところを記述しているように私には思われます。これはまた、ニーチェの理想とする境地にも通じているように思われます。

おそらくはこのような「気狂い」を多数作り出していくことこそ、わが国が閉塞状態から脱却する鍵となるのでしょう。そしてそれは、この国にとりましては十分に可能である、と私は考えております。

なにぶん、大拙師が紹介しておられますのは、ほかならぬ日本文化なのですから。