邪馬台国への東征

本ブログでは三国志倭人条に描かれました卑弥呼の時代の倭国と、記紀の記述を突き合わせ、当時のわが国で何が起こったかを推理してまいりましたが、肝心なことを一つ書き忘れておりました。それは、崇神天皇は何者であるのかということ、そして纒向の地にあります巨大墳墓、箸墓古墳と卑弥呼との関係です。本日はこのうちの、崇神天皇の置かれました状況について考えてみることといたします。

まず、崇神天皇の出自ですが、私は彼は奴国の王に相当する人物であると考えております。この理由は三つあります。

第一に、崇神天皇は「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称されており、神武天皇の「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と並んで、初代の天皇であるように記紀には記されております。崇神天皇は記紀では第10代の天皇となっているにもかかわらず「はつくにしらす」とは奇妙な表現なのですが、9代までが大和の国の王であり、10代目以降が倭国の王であるならば、この書き方も妥当であるといえるでしょう。

日本書紀に崇神天皇が「御肇國天皇」と褒め称えられたとの記事が現れますのは倭迹迹日百襲姫の死亡記事の後であり、倭迹迹日百襲姫が二代目倭国女王のイチであって、倭国王の地位を崇神天皇が引き継いだといたしますと、これらの記述はまことに当を得たものとなります。

記紀の神武天皇に係わる記述はフィクションと考えられているのですが、神武東征に相当する出来事があったとするならば、それを行った人物は崇神天皇以外にはありえないでしょう。そして記紀の構成が出雲神話から九州への天孫降臨となっておりますことから、皇室の祖先が九州に源をもつ可能性は高く、東征が武力によるものではないとしても、九州から大和の地への王の移動があったことは高い確率で事実であろうと思われます。

第二の点は、崇神天皇の和風諡号が「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)」であり、「入り婿」であろうと考えられること。9代開化天皇は大和と尾張の王であるとの本ブログでの推定が正しいといたしますと、そのほかの当時の有力国は吉備と北九州の奴国であり、近攻遠交戦略に従うならば結ぶ相手は吉備ではなく奴国ということになります。

第三の点は、北九州における伊都と奴国の消長です。考古学的研究によれば、伊都国と奴国は互いに対立関係にあり、一方が勢力を増せば他方が勢力を減じる関係にあります。卑弥呼政権誕生前の1~2世紀は奴国が強大な勢力を誇っていたのですが、3世紀に入りますと伊都の勢力が拡大いたします。しかしながら、4世紀には再び奴国が勢力を増し、伊都国は滅亡へと向かいます。

このような両国の栄華盛衰は、これまでにみてまいりました当時の政治状況に見事に対応しております。即ち、当初奴国は出雲の西の海運を担い勢力を拡大し、ついには倭国王の地位に上り詰めるのですが、倭国大乱による敗戦で勢力を失い、倭国の外交拠点が伊都国に移ります。伊都国は女王国直轄と考えられるのですが、当時女王国に大きな影響力を持っておりました吉備の近攻遠交戦略にもマッチし、奴国の勢力を奪い、これに対立する伊都国を(女王国の直轄地という形ではありますが)繁栄させるという政策がとられたのでしょう。

これが4世紀になりますと、半島交易の拠点は、奴国の領域内にあります苅田付近に移動いたします。これには、外航船の操船技術向上により関門海峡を航行できるようになったという事情もあるのでしょうが、奴国の王が倭国王となったといたしますと、真っ先に実行される政策であるといえます。ここで注目すべきが日本書紀の崇神17年10月の「始めて船を造りき」なる記述です。この記述は、単に海運の重要性を記述しただけのものであるのかもしれませんが、崇神天皇が関門海峡を通行可能な船を造らせた、ということであるかもしれません。

外航船が関門海峡を航行できるようになりますと、途中に陸上輸送を挟む必要がなくなります。一旦九州の地で通関に相当する手続きを行ったとしても、船は荷を積んだまま古代の大阪の港、難波津まで直行できるようになります。そしてこの技術革新を口実として、半島交易の窓口を伊都から奴国の苅田港に移すこともできたのでしょう。苅田の港の繁栄は、付近に巨大な石塚山古墳が築かれたことからも裏付けられております。またこの地は、後の倭国の半島攻略に際しても重要な役割を果たすこととなります。

さて、日本書紀によりますと、崇神6年以前に天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱の神を御所内に祭るのですが、霊力が強すぎて家人が落ち着かず、他の場所にこれを移したとの記述があります。つまり、崇神天皇は最初からこれらの神を祭ることができております。崇神天皇が奴国の王に連なるものであれば、たとえば宇佐と宗像の神の宿りしもの(鏡か?)を大和の地に持ち込んだのではないでしょうか。

崇神天皇が神宝を大和の地に持ち込んだ理由として、彼が卑弥呼の地位を狙っていたのではないかということを以前書いたのですが、これは実は尾張の要請に応えてのものであったのかもしれません。すなわち、卑弥呼の死に伴いその後継者が必要になったといたしますと、尾張にはイチというカードもあったものの、齢13歳の少女では心もとなく思われたことは想像に難くありません。そこで、もう一人の祭祀を司る人物として崇神天皇に白羽の矢を立てた、ということであるのかもしれません。卑弥呼のときも男弟がこれを佐治しておりました。この男弟役が崇神天皇には期待されていたのではないでしょうか。

もちろん、単に祭祀を司ることだけが崇神天皇の目的であったわけではないでしょう。尾張にしてみれば、倭国第三の規模を誇る奴国と組めば、第二の規模を誇るライバル吉備に対して圧倒的に有利な立場が得られます。また奴国にしてみれば、かつての倭国王から外様的立場に転落したところから一気に逆転し、再び倭国王の地位を得て半島交易に主体的に係わる可能性が出てまいります。これら双方の利害が一致したことが、崇神天皇の擁立と、これに大海媛・御間城姫を嫁がせるという尾張の決断に至ったのではないか、と私は考えております。

崇神天皇は、出雲を討伐したほかは、彼を共立した国々に対して積極的に動くことはありませんでした。しかしながらその後の大和王権は、4世紀に伊都を討ち、5世紀には葛城氏と吉備を攻めております。こうして強敵を次々と倒した大和王権ですが、尾張氏は647年に発生いたします壬申の乱で決定的な役割を果たして大海人皇子を救い、天武天皇の時代へと突入してまいります。

こうしてみますと、3世紀後半に下されました尾張の戦略的決断は、まことに先見の明があったというしかありません。

続きはこちらです。

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です