よらしむべし、知らしむべからず

「民は之に由(よ)らしむべし、之を知らしむべからず」これは論語にある孔子の言葉ですが、いくつかの解釈がなされております。

まず、辞書的解釈は、「法律によって人民を従わせることはできるが、その法律の道理を理解させるのは難しいということ」とされております。「べし」は、今日では、「命令」を表す意味で一般に用いられていますが、古くは「可能」を表す意味でも多用されていたのですね。これには注釈がありまして、人民は法律に従わせておけばよいもので、その意義や道理を理解させる必要はない」との解釈で使われることも多いが、本来の意味ではないとしております。

たしかにこの「本来の意味ではない」形でこの言葉は多用されております。わかり易く言えば、「大衆は馬鹿であるから、いちいち説明したところで理解させることはむずかしい。だから黙って従わせておけばよい」ということですね。

このような考え方は、今日非難されております「反知性主義」にも通じるのですが、これは一国を率いる支配層だけではなく、これに対抗しております、いわゆる「リベラル」も同様の動きをしているように私には思われます。つまりは、どっちもどっち、というのが私の印象なのですね。

一方で、これをさらに一歩進めた解釈も存在いたします。これは、いうなれば「リーダーシップとは理屈ではなく、リーダーに対する信頼感で成り立つ」というものです。これは、成句の正しい解釈であるか否かは別として、たしかにリーダーたり得る人物に要求される特性でしょう。帝王学などというものも、リーダーにふさわしい人物を作り出す方法論である、ということもできそうです。

さて、ひるがえって我が国の政治状況をみますと、毎年、年末が近づくたびに、野党再編のごたごた話が伝わってまいります。なぜこんなことになるのか、国民はとっくに見抜いているのですが、政党交付金をもらわんがためであろうとの見方は、おそらく間違ってはおりますまい。

このような政党が、果たしてリーダーたり得るのか。こんなことは議論するまでもないのですね。

全く何を考えているやら。

政治の道を志す人たちには、まず、自らの本来の目的が何であるのか、今一度思い起こしていただきたい。

どうも皆さん、手段が目的化してしまっているのではないでしょうか。そんなことをしておりますと、本来の目的から果てしなく外れていくだけであるように、私には思われるのですが。

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