デカルトのコギトはトートロジーである、ということ

以前の記事で、デカルトのコギトについて議論いたしました。その際、読者の方からのコメントに応える形で、まとめのコメントを付けておいたのですが、コメントでは多くの方に読んでもらえません。そこで、このコメントに多少の手直しをしたうえで、独立した記事として掲げておくこととします。

コギトには主語“ego”が付いていた

ラテン語版のデカルトの書物で、ego cogito ergo sumという言葉が書かれたのは、デカルト自身がラテン語で書いた哲学原理と、デカルトがフランス語で書いたものをクルセルがラテン語に翻訳した方法叙説の二つです。

方法叙説は、クルセル訳ですが、デカルトの監修下に翻訳したといわれており、主語がついているのはデカルト自身の考えによる可能性が高いでしょう。(哲学原理に主語がついていますので、いずれにせよcogitoに主語を付けることがデカルトの考えであることは明らかなのですが。)

この言葉が、主語を伴わない「コギト・エルゴ・スム」として一般に語られている理由は、ラテン語は一人称の場合に主語を省略することが一般的であるためと、私は考えております。また、デカルト以外の人が書いた書物や格言集にこの言葉が主語を落とした形で引用されたことが、主語なしの形で広く伝わるようになった原因と思われます。

実は、ラテン語は、一人称の場合に主語を落とすことが一般的なのですが、主語を強調する場合には、主語をあえて記述するとされております。デカルト自身の書物が、主語を記述していることは、デカルト自身に主語を強調する意図があったと考えてよいでしょう。

コギト命題はトートロジである、ということ

ブログにも書きましたように、今日の論理学では、「われ思う」という命題の中には「われあり」を含むとしております。デカルトの時代にはこのような常識は存在しておらず、これを明示するために、主語を強調する形の記述としたのではないでしょうか。

「元カレと喧嘩した」という言葉から「元カレあり」を知ることは、当時でも普通に行われていたでしょうが。

「われ思う」にすでに「われあり」が含まれておりますので、「われ思う、ゆえにわれあり」は「われあり、ゆえにわれあり」と同等であり、この論理はトートロジーに他なりません。

一般人向けだったコギト命題

もう一つ重要な点は、デカルトが同時代の哲学者と草稿を交わしながら書き上げた「省察」が、「ego sum, ego existo(我あり、我存在す)」であることです。コギト命題が一般人向けにフランス語で書いた叙説とエリザベート皇女に捧げられた哲学原理にのみ記されたという事実は、この言葉が哲学の本質にかかわる重要な命題なのではなく、哲学を専門としない一般の人々に向けた言葉として提示されたことを物語っております。

さすがのデカルトも、トートロジーを専門書に記すことは、憚られたのでしょう。

意味ある命題の要求

これをトートロジーとしておりますことは、私のブログでも読んでおります三浦俊彦著「論理学入門」などの論理学の入門書を読めばご理解いただけると思います。つまり、命題は意味のあるものでなければならない=主語とされたものが存在しない場合、その命題は真とは言えない、ということですね。

たとえば、「日本の大統領は安倍晋三である」という命題は偽なのですが、そうである理由は、安倍晋三以外の人物が日本の大統領であるからではなく、日本には大統領が存在しないことによります。「日本の大統領は安倍晋三である」という命題が真であるのは、「日本には大統領が存在する」という命題と「その日本の大統領が安倍晋三である」という命題の双方が真である場合に限られるのですね。

先の私の記事に追記いたしましたように、カントも同様に解釈しており、まずこの考え方が正しいであろうということは、かなりの自信をもって言えると考えております。

ラテン語版原典へのリンク

以下、参考までに、原典へのリンクを掲げておきます。これをクリックしていただくと、該当ページが出てくるはずです。

一般人向けの「叙説」と「哲学原理」に書かれたこの言葉には主語の“ego”が付いていること、そして専門家向けの省察には全然異なる言葉が記されていることをご確認ください。(“s”のフォントが普通ではありませんのでご注意ください。)

哲学原理:最下行のイタリックになっているところがそれです。

方法序説:21ページは中ほどの行の右寄り、20ページは最下行の右端にこの言葉があります。

省察:中央の黄色くマーキングしたところをご覧ください。

だれが主語“ego”を落としたか

コギトの主語を落とした者が誰かという問題ですが、Wikipediaではマルブランシュが「真理の探究」で落としたとしております。しかしながら、ラテン語の格言は、ヨーロッパの教養人がよく引用し、そのための格言集など各種出ていたずで、ここに主語を落とした形で掲載されると、後世の人々はみな主語を落とした形で引用することになってしまいます。

確かにマルブランシュがこの言葉の主語を落としたことは事実ではあるのでしょうが、デカルトのこの言葉から主語が落ちた理由は、第一人称の場合には主語を落とすとのラテン語の一般常識に多くの人が引きずられた結果ではないか、と私は憶測しています。

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