悪魔のささやき? 共感力

「ポール・ブルーム著『反共感論/社会はいかに判断を誤るか』を読む」と題する先日のエントリーで、共感力の種々の問題点についてご紹介しました。一方で、「天才を殺す凡人と、これからの経営」と題する以前のエントリーで、共感は凡人の尺度であり、市場に受け入れられるためには凡人の共感を獲得しなければならない、としております。共感に関するこの矛盾した状況につきまして、本日は考察することといたします。

共感される力はネット上の影響力

共感が凡人の尺度であり、ネット上には凡人が圧倒的多数であるという事実は、共感される力が即ちネット上での影響力になることを意味します。

この影響力は、実は、ネットを利用する上では決定的に重要な要素なのですね。つまりは、影響力があれば売りたい商品が売れる、政治的主張が支持を集める、宗教なら信者が増える、卑近なところでは、ページビューが増えてアフェリエイト収入が増える。

と、いうことは、ネットを使って何かをしようとするなら、まずは、共感力に働きかけなくてはいけない。

共感力に働きかける方法、これ、実は前回ご紹介した「反共感論」の中にも多々ヒントがあったのですね。これについて整理するのを、このエントリーの第二のテーマといたしましょう。

しかし一方で、共感には共感で問題があると「反共感論」は主張します。この主張、実は私もかねてから似たようなことを考えていたのですね。このあたりについて、まず、考えてみる必要があるでしょう。

共感をめぐる問題

以前のエントリー「炎上を防ぐためのちょっとした知恵」でもご紹介したのですが、電子的コミュニケーションの場における対立関係は、私の研究テーマの一つで、これに関する様々な文書は固定ページ「悲しきネット」においてあります。

この結論的な図は、以前もご紹介したのですが、以下の関係が見出されております。

対立の背景

この図の中で「親密な人間関係」と書かれた下の段が、共感を重視する凡人の世界であり、普遍性を指向する上の段が理性的・論理的整合性を重視する天才・秀才の世界ということになります。

ここで誤解のないように注意しておきますが、この「天才」や「秀才」とは、実際にそう呼ばれるような人ももちろん含まれるのですが、そうではないふつうの人であっても、その道を目指している人、価値観を共有する人を含みます。つまりは、学問研究に関わる人々や研究活動と同じ姿勢でコミュニケーションする人々が含まれる、ということです。

この研究を行った際には、コミュニケーションの場にみられる対立関係の多くが、上段の普遍性志向と下段のコミュニティ志向の間で生じておりました。そして、私の立場は学問研究に電子的コミュニケーションを利用するというものでしたから、普遍性志向を良しとするものであったわけです。

ところが最近、共感重視の凡人の思想にも配慮する必要を強く感じるようになっておりました。研究者相互のコミュニケーションの場と考えるのであれば、凡人などどうでもよいと言えるかもしれませんが、ネットコミュニケーションは多くの人々(当然、凡人が多数を占める)に直接働きかける力があり、むしろこの力こそがネットの重要な力であって、これを有効に使うためには、影響力を無視できないからなのですね。

そうなりますと、共感をどのように高め、どのように使うかということは、ネットコミュニケーションのノウハウということになるのですが、これが問題のある行為となりますと、単純にこの方向に進むこともできないでしょう。

そこで、どうすればよいか、という点が新たな問題として浮上いたします。

良い共感と悪い共感

第一に、普遍的コミュニケーションの中にも共感がないわけではない、という点に注目する必要があるでしょう。

電子的コミュニケーション上の対立を研究した際にみられた普遍的コミュニケーションであっても、技術的な困難に直面した人が助けを求め、これに他の人が助力するといったシーンは多々見られております。

そもそも、コミュニケーションというものが、助け助けられる関係にあるコミュニティ(共同体)を作り上げる重要な道具であって、コミュニケーションの場にはコミュニティが形成されるという背景もあります。

前回ご紹介したポール・ブルーム著「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」では、「共感」とこれに近い「思いやり」の関係を、以下のように書いております。

哲学者のチャールズ・グッドマンは、仏教の道徳哲学を扱った本のなかで、仏教の教義では、本書でいう共感に該当する「感情的な思いやり(sentimental compassion)」と、私たちが通常思いやりと呼んでいる「偉大な思いやり(great compassion)」を区別すると述べている。かれによれば、前者は菩薩を消耗させるので避けるべきであり、追及する価値があるのは後者である。偉大な思いやりは、より距離を置いた立場をとり控えめで、いつまでも維持することができる。

共感と思いやりのこの区別は、本書の議論にとって一貫して非常に重要であり、神経科学の研究によっても支持される。あるレビュー論文の中で、タニア・シンガーと認知学者のオルガ・クリメッキは、この区別について次のように述べている。「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者と共に感じることではない」

ここでは、「共感」と「思いやり」という言葉のとらえ方において、著者と佛教教義の間に多少のずれがあるのですが、「共感:感情的な思いやり」と「思いやり:偉大な思いやり」の二通りがあって、前者は問題があるが、後者は有意義であるというのが共通した考え方でしょう。

そして、この二つの概念の差は、共感が他者の感情を共有する感性的行為であるのに対し、思いやりは、他者の感情からは距離を置いた理性的行為である、という違いがあるというのが私の理解です。

これを電子的コミュニケーションの対立にあてはめれば、親密な人間関係を志向するのが共感重視の考え方であり、普遍的価値を重視するのが思いやり重視の考え方ということでしょう。そして、コミュニケーションの場でよき関係を形成するためには、思いやり志向を目指すべき、といえるのではないかと思います。

共感を獲得する技術

そうは言いましても、ネットの世界の多数の参加者は、凡人などという失礼な言い方をされております、共感重視の人々なのですね。

ネットで商売をする、政治的主張を伝える、その他の様々な行為であっても、多くの人々が共感するメッセージを発信することは、非常に意味のあることです。それが良いことであるか悪いことであるかはともかくとして、発信者の利益にかなうことは確かでしょう。

そうなりますと、共感を獲得する手法は、ネットコミュニケーションの一つの重要な技術ということになります。そして、ポール・ブルームの反共感論は、同書の主張とは裏腹に、このためのノウハウを与えてくれる書物である、という見方もできます。

そこでここでは、いかにすれば共感を獲得できるのかを、同書からみていきたいと思います。

近しい人

共感は近しい人に対して強く作用します。したがって、発信者はターゲットとする人々に近いことをアピールできればよいのですが、それができない場合でも、ターゲットとする人々から遠いことなどを表明してはいけません。

たとえば、ネットには若い人が多いのですから、中年男は嫌われる。間違っても「俺の若いころは」などと書いてはいけません。「コム・デ・ギャルソン(少年のように)」で通さなくてはいけないのですね。

そういえば、成田でつぶやくツイッターが嫌われている、などという記事も目にしました。私はお金持ち、しょっちゅう世界を旅してる、などという情報の拡散は、共感を得るためには逆効果となります。

近しい人が共感される、という点では、今日の日本の野党は戦略を間違っています。

国会でカメラ目線でプラカードを掲げる、などという恥ずかしいマネは、ふつうの有権者は、まずいたしません。これ、町中から中継するテレビカメラに手を振ったりピョンピョン飛んで顔を映させようというのに近い行為であって、こんなことをするのは子供たちくらいなのですね。

もう一つは、帰化人を多く入れてしまっている。まあ、その手の有権者の票に期待するならよいのですが、一般には、日本人の共感を得にくい人になります。

もちろんこれが、政治的に正しいか否かは別ですよ。そういうことがあるから、共感力は非道徳的と言われているのですが、ここは事の善悪を脇に置いた、純粋な技術的側面について議論しております。

一つのノウハウは、受け手が距離を感じるような属性は明らかにしないことでしょう。仮に自らが大金持ちであっても、言わなきゃわかりゃしません。謙虚な態度で通せば親近感も沸くというものです。

情報の量

むかしのこのブログのエントリー「アンネと日記」にも書いたのですが、ナチスに殺された少女はコマンといるのに、人々がなぜアンネ・フランクの悲劇に心を打たれるのかといえば、彼女が日記を書き、多くの人が彼女の境遇を知ることとなったからなのですね。

メッセージの発信者に関する情報を受け手が多く持っていれば、それだけ共感も得やすい。大災害は連日ニュースで流れるため、多くの人が共感するのですが、ふつうの事故や病気は、多数の犠牲者が日々出てはいるのですが、あまりニュースにならないために誰も共感しない。これも同じ効果でしょう。

発信者が共感力を高めるためには、発信者に関する情報をなるべく多く受け手に与えなくてはいけない。これは、別にプライバシーをさらけ出す必要まではなく、書き手が選択した情報だけを出せばよい話です。

このとき、メッセージを発信者に結びつくハンドル(ネット名:ニックネームや実名など)と結びつけることで、少なくとも一連のメッセージが同じ人のものであることを認識してもらうことが必要です。そして、これらのメッセージの立場が一貫しており、かつ、共感されやすいことが必要でしょう。

たとえば、ちきりんさんなどは、(成功しているかどうかは別として)匿名でメッセージを発信しており、顔もうちわで隠しているのですが、「ちきりん」というハンドルやうちわに書かれた似顔絵(?)は強い印象を読者に与え、理性的で合理的なその一貫した発言内容と合わせて、ちきりんさんという人物をそこにいるようにクリヤーに描き出しています。

まあ、イケハヤ師も、人物に関わる情報は多く人物像をクリヤーに描き出してはいるものの、前項の「近しい人」という条件からは大きく外れており、一部の人には強い共感力を発揮するものの、他の人々からは嫌われております。まあ、これはこれで、一つの作戦としては正しいのでしょうが。

逆に、BLOGOSに多く見られる乱数のようなハンドルは、マニア的な人々にはきちんと発言者が識別できているのでしょうが、ふつうの人には、一貫した人格をそこに見出すことは難しい。いくら多数のコメントを書き込んでいても、情報量による共感力は期待できないということになります。

善良であること

共感を得るには悪人であってはいけません。もちろんこれは、受け取る人がそう思うということであって、実際には悪事の数々を働いていても、送られたメッセージからは発信者は極めて善良な人物であるようにみえればよいのですね。

逆に、明らかに悪事をなしているようなメッセージは、共感されるどころか、炎上してしまうことだってあります。コンビニの冷蔵庫に入ってみたりするようなメッセージは、ほとんどの読者には共感されず、非難の嵐を浴びてしまいます。まあ、あたりまえの話ではあるのですが。

自らが属す小さなコミュニティでは、みんなが普通にやっていて、誰も悪事とは考えていないことであっても、広い世界では悪事と考えられているような行為は、公開する際に気を付ける必要があります。

たとえば、暴走族の人であれば、スピード違反など別に構わないと思うかもしれませんが、公道で何キロ出したなどという書き込みは、感心してもらえるよりも、炎上を招くリスクが多分にあります。著作権の侵害などもその手の行為ですね。

なにが良くて何が悪いかについては、狭い世界の常識を超えた、ふつうの社会の常識を知っていなくてはいけません。自らのメッセージに何らかのクレームが寄せられたら、感情的に反発するのではなく、そのクレームの妥当性を、法律を含む広い世界の常識に照らして、チェックしなくてはいけません。

まとめ

以前の私は、理性的なメッセージを書くべきであって感性的なメッセージはコミュニケーションの場を混乱させると考えておりましたが、最近は、共感の重要性を感じるようになり、この調整をどうしたものかと悩んでおりました。でも、先日読みました「反共感論」でおよその解は得られたように思えます。

つまりは、感性のみで走る「共感」ないし「感情的な思いやり」は、道徳的行為に結びつく場合もあるが、多くの場合は公正さに欠け、非効率的で、社会的資源の浪費を招き、さらには非道徳的行為に結びつく場合もあることから、あまり好ましくはない一方、理性的な「思いやり」は害の少ないやり方である、ということですね。

ただし、共感力はメッセージに影響力をもたせるには有効な属性であり、発信者が道徳的に振る舞う限りでは、共感力を持つことは悪いことではない。刃物は、調理にも使えるが人を傷つける場合もある。共感力も、そういうものと心得て注意深く使えばよさそうです。

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