鈴木敏夫著「禅とジブリ」を読む

このブログでは、アニメとラノベなどというカテゴリーを設ける一方で、鈴木大拙師の禅の思想について種々語ってまいりました。

ですから、鈴木敏夫氏の書かれた「禅とジブリ」などという書物を見かければ買わないわけにもいきません。

本日はこの書物について簡単にご紹介することといたします。

同書は、五回にわたって行われました鈴木敏夫氏と三人の禅僧との対話を活字化したもので、東京世田谷にあります龍雲寺住職の細川晋輔氏が司会を務めておられます。

構成は、簡単なプロローグとエピローグに挟まれた五回の対話記録からなっており、第一回と第二回が鈴木敏夫氏と細川晋輔和尚のお二方の対話、第三回がこれに鎌倉にあります円覚寺の横田南嶺円覚寺派管長が加わっております。そして第四回は作家で福聚寺住職の玄侑宗久和尚と鈴木氏の対話を細川和尚が司会し、最後の第五回は、良寛和尚の書画を前に鈴木氏と細川和尚が対談をしております。

禅僧の話すことですから理屈ではなく、声やトーン、雰囲気といったものを読んでいかなければいけないわけで、これに解説を加えることは空しい作業でしょう。そこで、いくつか面白い部分を引用し、私のコメントを付けていくことといたします。

第一回の面白い部分

細川:ジブリ作品には、禅僧としても学べることがたくさん詰まっています。禅で、梁の武帝が「お前は何者だ」と達磨さんに訊くと、達磨さんは「不識(ふしき:わからない)」と答える、という問答があるんです。『もののけ姫』を観ていて、ハッとしたんですね。『もののけ姫』に、モロというヤマイヌのキャラクターが出てくるんですが......。あ、鈴木さんに言うもおかしいですね。
鈴木:ははは。ちょっと知っています。
細川:モロが主人公のアシタカに「お前にサンを救えるか」と訊く場面がありますよね。ヒロインを救えるか、と。アシタカは「わからぬ」と応えるんです。このセリフに禅問答のような深いものを感じたんです。
鈴木:へえー。なるほど。
細川:主人公なら「救う」と言ってほしいじゃないですか。でも「わからぬ」と。その後に続けて。アシタカは「だが、共に生きることはできる」と言う。これは、達磨さんの言った「不識」じゃないか、と。

アシタカのセリフは、普通に考えても「わからぬ」と答えるしかないようにも思いますが、、、

ただ、過去未来を重視する普通の考え方に対して、禅は現在に生きることを重視しているわけで、細川和尚がこのセリフに思い入れを持つのもわからないではありません。

達磨さんの場合は、本人なら当然知っているはずの「お前は何者だ」という問いに応えて「わからぬ」というわけですから、こちらはどこから見ても禅問答になるわけですね。

(11/26追記:本日のイケハヤブログに似たような話が出ていますね。

この中ではあちゅう氏のツイート本人の私がどこに向かってるかわからないのに、部外者にわかってたまるか!」)に対して、イケハヤ師「ほんと〜〜〜に、来年何してるかは、自分でもわかりません。」とよいしょしています。

こちらは、まあ、禅問答風ではあります。単に、無責任、というだけの話であるのかもしれませんが、、、)

あまりケチをつけていると先に進みませんから、ここは先を急ぐことといたします。

鈴木:最近僕は、好んで二度ほどタイの田舎に行ったんです。バンコクから車で五時間ほどのパクトンチャイという村です。一度行ってすごく気に入ってね。一言でいえば流れている時間が違うゆったりなんですよ。

   もうひとつの気に入った理由は、日本で出会ったパクトンチャイ出身の女の子に惹かれたんです。というのは、彼女、今この瞬間のことしか考えないんですよ。......
......
鈴木:彼女、まさに「一日暮らし」ですよ。彼女と大家族を撮った写真があって、みんなお金がなくて、その日の暮らしにも困っているくせに、それを微塵も感じさせないすごく明るい顔をしているんです。僕の友人なんて、、その写真を見て泣いちゃったんですから。「苦労しているのに、なぜこんなに明るいんだ」って。
細川:禅が目指す姿ですね。日本も昔はそうだったと思うんですよ。
鈴木:そう! 思想家の渡辺京二さんが書いた『逝きし世の面影』という本は、幕末・明治に日本に来た外国人が国へ送ったレポートや手紙を集めた本なんですけどね。それによると、日本人はみんなニコニコしていて、子供を大事にし、一日にわずかな時間しか働かないで、後は集まってしゃべっている。「なんていい国なんだ」というレポートばっかりなんですよ! 今、幸福度でいうと、ブータンが有名でしょ。けれど当時、日本はブータンだったわけです。それが富国強兵のために一気に変わり、その幸福をみんなでよってたかって失っていった。

ここで禅の思想が強調することは、人は過去未来にこだわっていてはだめだということ、今この瞬間を大事にしなくてはいけない、ということなのですね。

これをきくと、カントの指摘した悟性と理性の違いとの関連を意識したくなります。

カントによれば、言語的論理的知性である理性は、時間に束縛されず、過去も未来も考えることができる。それに対して、反射的瞬間的な知性である悟性は、現在という時間に束縛されているのだ、と説きます。これは、理性の有利な点ではありますが、これに言及しておりますカントの「純粋理性批判(上) (中) (下):岩波版がお薦め」は、理性を重視しがちな西欧の常識に異を唱えた書物であって、カントは悟性の働きを重視しております。

そして、禅の思想は理性を抑制して悟性を重視する方向を目指しており、この点で、カントの主張と軌を一にしております。

理性に一定の懐疑的まなざしを向けることから、現在を重視し、過去や未来に重きを置く理性的働きを抑制するカントの考え方は、禅の思想によく一致しております。

ただ最後の一文はいただけません。明治維新後我が国が富国強兵を目指さざるをえなかった国際情勢も考えなくてはいけないということをここでは指摘しておきましょう。

当時は、列強が世界支配を強めていた時代であり、軍事力に優れる列強がアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を扱うさまは、人間扱いではありませんでした。

明治維新の直前に行われたアメリカの南北戦争は奴隷制をめぐる争いでしたし、同じくイギリスと中国の間でたたかわれたアヘン戦争は、中国にイギリスがアヘンを売り込むことを認めさせようというもの。

これら列強諸国の開国要求を拒絶して我が国が鎖国を続けることも、許されることではありませんでした。

このような現実を前にすれば、当時の我が国が選べる戦略は、富国強兵以外にはあり得なかった。これだけは、忘れてはいけません。

第二回の面白い部分

細川:「生業(なりわい)」という言葉がありますよね。「生活するための仕事」という意味合いが強い言葉ですが、自分にとって僧侶とは「生業」なのか、「生き方」なのか、といろいろと考えた時期があったんです。考えるうちに、いい言葉に出会いました。「道楽」です。道楽は今ではイメージの悪い言葉ですが、本来は「仏道を歩むことを楽しむ」という仏教用語なんです。そうなれるといいな、と。

鈴木:「道楽」って仏教の言葉なんですか!? 驚いた。岩波新書から出した僕の本のタイトルが『仕事道楽』。好きな言葉のひとつですよ。そのタイトルを見て、宮さんは「仕事が道楽とは何だっ」と怒りました。彼は真面目な人なんで、違和感があったんでしょうね。彼にも理解してもらいたかったけれど、やっぱり僕は仕事とは道楽だと思ったんです。

細川:鈴木さんは、まさに生きることを「道楽」にされている気がします。いろいろな悩みを抱えている方も、そう思えれば気持ちがずいぶん楽になると思うんですね。

鈴木敏夫氏の「仕事道楽」は、実はこのブログでも以前ご紹介しております。この時は、ジブリの内部事情を知る良い書物としてご紹介しています。全然、禅風ではなかったのですけどね。

第三回の面白い部分

鈴木:実は、僕が禅に触れたのは、この円覚寺だったんですよ。ちょうど五十年前、十日間の修行体験をしました。さっき修行道場を見学して思い出したんですが、十八歳で大学に入って、当時のアパートの近くの本屋さんで鈴木大拙という禅僧の本を見付けて、なぜか買っちゃったんです。

   それは、ぼくと名字が同じだったのと(笑)、「大拙」つまり「大いに拙(つたな)い」という名前に惹かれたんですけどねえ。そうすると、禅というのはいったい何だろうと思いましてね。それで、円覚寺で修行体験の募集を見かけたので、まあちょっと行ってみよう、と。

なんとまあ、鈴木敏夫氏の禅の原体験は、鈴木大拙師であった、と。う~ん、、、

第四回の面白い部分

鈴木:最近、海外ではアニメ映画を作るときに、最初から世界に通用させようとして題材を選ぶんです。でも、そういうのって大体うまくいかないんですよ。だから僕、前に韓国で言ったのは「もっと韓国特有のものをやりなよ」って。そのほうが、みんな興味をもってくれる。

玄侑:禅で言うと、世界に広まった禅は日本の禅なんですよね。発祥地インドのものでも、中国のものでもないんです。

細川:どうしてなんでしょう。

玄侑:うーん。結局、宗教の最も基礎的な部分は「禅定(ぜんじょう)」(宗教的な瞑想状態)だと思うんですよ。宗教が持つさまざまな「行」は、この禅定に至る道筋なんです。その禅定に専門化しているのが日本の禅なので、それ以外のことをあまり問わない。だから宗教性が薄いんです。宗教のもっともコア(核)になる部分しかないんだと思います。

この部分、玄侑氏の受け答えは、鈴木氏の話の筋をずらしてしまっておりますが、こちらはこちらで興味深い部分です。つまり、禅はインドに起こり中国で洗練されたものであるにもかかわらず、日本の禅が世界に広まっているのだと玄侑氏は語るのですね。

まあ、たしかに宗教性の薄さが禅の普及を促進したという面もあるのかもしれませんが、我が国の禅が、主体と自然との一体化を目指すといった形の、より哲学的な傾向を強めたからではないかという気も致します。これ、同じコインの裏表なのかもしれませんが。

特に大拙師の言う「大地」は、たとえば"Back to the Nature"に象徴される、ヒッピームーブメントに結びついておりますし、「われ一人」はハイデガーのダーザインにもつながるように思われるのですね。

このあたりにつきましては、以前のこのブログ「鈴木大拙著『日本的霊性』を読む」で、インドに起こり中国で発展した仏教であるにもかかわらずこれを日本的霊性と呼ぶ理由について、鈴木大拙師の説明をご紹介しました。

そしてもちろん、我が国の禅が世界に広がりましたもう一つの理由は、世界を股に掛けた鈴木大拙師のご活躍があってのことだと思いますよ。

第五回の面白い部分

鈴木:「狎れ(なれ)」っていう言葉があるじゃないですか。禅で「手放せ」と言うのはそれじゃないですか。自分の経験、知識で機械的にこなしちゃうのが「狎れ」。それは良くないですよね。やっぱりある範囲の中で新鮮なものをやらないと。
細川:なるほど、そういう意味では、良寛さんの字は年老いても枯れていないですよね。
鈴木:いやあ、枯れていないし、色気もあるもん。貞心尼宛の手紙なんて、ちょっと相手方の気を引こうという気がありますね。僕はこの手紙を見て、人って死ぬ間際までそうなんだな、と思っちゃった。だから宮さんもそうなんだろう。僕はどうなんだろうって。そういうことを考えさせてくれる書ですね。

「狎れ」は、「慣れ」と源を一にする言葉で、親しくするあまり礼儀を失すること、などと辞書には出ております。この場合は、慣れていい加減にやってしまう、といった意味である様子です。

最近、ライフシフトという本を読んでいるのですが、この中に「ネオテニー(幼形成熟)」という概念の重要性に触れている部分があるのですね。

ネオテニーとは、体は大人(性的に成熟)になっても、幼い部分を残しているというありかたで、平均寿命が100歳になる時代の生き方を扱うライフシフトの主張に従いますと、成熟後も変化し続けるためには、完全な成熟は支障になります。

ここで扱われているのも実はそういうことで、黒沢監督や宮崎駿氏がいくつになっても傑作を作り続けていられる理由が、どこかに成熟しきっていない部分を残しているからであり、ネオテニーのなせるわざであるのかもしれません。

「大人になれ」なんてことをよく言いますけど、これから先の時代には、これはちょっとまずい。特に、アニメや実写映画の監督をやろうなどという人は、常に幼い部分、チャレンジできる部分を残しておかなくてはいけないのではないかと思います。

もちろん、大家として大成して余裕しゃくしゃくの人生を送るなんて生き方も、本人にとっては悪くはないと思いますけど、優れた作品をいつまでも生み出してもらいたいのはファンの勝手な思いではありあす。

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