木田元著「ハイデガー『存在と時間』の構築」再読

先日のこのブログ「筒井康隆著『誰にもわかるハイデガー』を読む」で、筒井康隆氏をほったらかしにして木田元氏の「ハイデガー『存在と時間』の構築」を読んでしまったのですが、私が同書を読んだのはずいぶんと以前の話で、記憶も怪しいということで、この本を読みなおすことといたしました。

前回読んだときは、ハイデガーが「存在と時間」のベースとした思想について、簡単にご紹介したのですが、今回は、「存在と時間」の未完部分の主要課題であります「本質存在」と「事実存在」にフォーカスして議論することといたします。

おそらく、この議論に関する中心課題は、構築書211ページ以下で木田氏が書かれていることが最も多くを語っているでしょう。

木田氏によれば(つまりはハイデガーによればということですが)ギリシアの思想はもともと東洋的であったものが、プラトン/アリストテレス以来、彼らが新たに形成した西洋哲学へと移行したとみなします。その時点で、元々は単純であった存在が「事実存在」と「本質存在」に分化した、というのですね。

この分化は、私の理解するところでは、「本質存在」が付け加わる形(ないしは「事実存在」から分離独立する形)で行われ、かつ、プラトンにより「本質存在」が重視された、ということでしょう。

これは、彼らの哲学が、ギリシアのあちこちにありました彫刻から想を得ていることと多分に関係し、彫刻の素材と製作者の意図という二つの要素を考察した結果生まれた思想であることによる、と主張するのですね。

以下、少々長くなりますが、この部分を木田氏の書から引用いたします。引用は適宜区切り、間に私の解説を入れていきます。

引用にあたりましては、読みやすさを考えて適宜段落を補ったほか、漢数字を算用数字に改めておりますことをご了承ください。また、引用元を示す“N II”は、ネスケ社版ハイデガー著「ニーチェ」(原文)からの木田氏訳になる引用です。

プラトンは、制作的振舞いに定位した事物の存在構造を考えようとしたとき、その制作において作られるべきものの先取りされた姿を<イデア>と呼んだ。

これは、アリストテレスに言わせると、「絶えず変化する感覚的な事物」、つまり生成消滅する<自然(フュシス)>とは<異種の存在者(ト・ヘテロン)>であり、いわば生成消滅をまぬがれて永遠に同一にとどまるもの、<超自然的>な存在者なのである。

彫刻作品を、物理的実体である自然(フュシス)と表現そのものであるイデアという二つに分ける考え方は、現代の著作権概念にも表れています。

本や絵画という物理的実体の所有権と、そこに書かれた物語や絵画表現に対する権利(著作権)は、別の権利であり、書物を購入したからといってその内容にかかわる権利までを得たというわけではありません。

そして、物語は物理的実体と別個に存在し、これを記録した書物が失われても、その内容である物語自体は永遠に同一にとどまる、というわけです。

実際問題としては、何らかの形で複製物が伝わる必要はあるのですが、今日では大抵の著作物はデジタル化され、世界のあちこちにコピーが保存されております。デジタルの時代、作品は永遠の生命を得たともいえるでしょう。

このイデアから見てとられた<形相(エイドス)>によって<質料(ヒュレー)>が構造化され造形され、ということはつまり<形相(エイドス)>と<質料(ヒュレー)>の合成体(ト・シュノロン)として個々の存在者が存在することになる。

こうして、<存在する>ということは<作られてある>こと、<存在=被制作性>という存在概念が形成された、ということであった。

彫刻の場合であれば、確かに作者の制作行為の結果である「作品(ワークス)=形相(エイドス)」と彫刻としての「物理的実体=質料(ヒュレー)」を別個の概念としてとらえることも妥当でしょう。

でも、自然物の場合はどうか、となりますと、これは分けることなどできない。

分けることなどできない、のですが、すべては神の創造物であるならば、分けることが可能となります。

逆に、全ての物には、(作者の意図である)本質としての存在と、(そこにモノがあるという)事実としての存在が備わっているとするのであれば、作者たる神の存在が前提となる、極言すれば「神の存在が証明される」ということになります。

これはしかし、少々おかしな論理といえるでしょう。

では、その制作の<質料・材料(ヒュレー)>になるのは何であろうか。<自然(フュシス)>以外には考えられない。

つまり、超自然的なイデアを想定する<形而上学的(メタフィジカル)>な思考様式のもとでは、<自然(フュシス)>はもはや生きて生成(し消滅)する自然であることをやめ、超自然的な原理にのっとった制作の無機質な<質料(ヒュレー)>になってしまうのだ。

この<質料(ヒュレー)>は<形相(エイドス)>によって構造化されてはじめて存在者と認められるのであり、それ自体では非存在者なのである。

イデアとしての存在こそが、いまや真に存在するものへと格上げされ、以前支配的であった存在者そのもの[つまり自然(フュシス)]は、プラトンが非存在者(メー・オン)と呼ぶものに零落してしまう。(『形而上学入門』300ページ)

ギリシャ語の<質量(ヒュレー)>がラテン語では<materia(マテリア)>と訳され、それがたとえば英語の<material>に引き継がれている。これに訳語としてあてられている<物質>という日本語も、単なる質料(材料)としての物という意味である。

<形而上学的思考様式>と、自然を単なる無機的な物質と見る<物質的な自然観>とは連動していることになる。

ハイデガーが、<本質-存在(ヴァス・ザイン)>と<事実-存在(ダス・ザイン)>の区別を共に、<形而上学>としての哲学がはじまると言うときに考えているのは、このような事態である。

だが、ハイデガーによれば、そのとき単にこの区別がおこなわれるだけではなく、それと同時に、超自然的なイデアに由来する<本質-存在(ヴァス・ザイン)>の<事実-存在(ダス・ザイン)>に対する圧倒的優位が確立される。

イデアの優位は、形相(エイドス)と協力して、<何であるか(テイ・エステイン)>を基準的な存在の地位につかせる。存在はまず本質-存在(ヴァス・ザイン)ということになるのである。(N II 458)

...
ついでに言っておくと、先ほどもふれたようにハイデガーは、<アル>ということはもともと「単純な」事態であり、「稀有な豊かさを秘めた単純なもの」であったのに、それがプラトン/アリストテレスの形而上学的思考のもとで<本質存在(エッセンティア)>と<事実存在(エクステンティア)>、<デアル>と<ガアル>に区別されたと言うが、これはどういう意味か。

例えばわれわれ日本人の語感では、<存在>と聞くと<事実存在(エクステンティア)>を思い浮かべることはあっても、<本質存在(エッセエンティア)>を思い浮かべることはない。<本質存在>という訳語そのものが耳ざわりで、<本質>だけでともめておいてもらいたいくらいだ。

そして、<事実存在(エクステンティア)>を思い浮かべるといっても、それはいっさいの<本質存在>をぬき去られた残り滓のような<事実存在>ではなく、もう少しふっくらした、いっさいの<本質存在>を自分のうらから発現させるような<事実存在>である。

つまり、われわれは<存在>を<本質存在>と<事実存在>とに区別したりせず、「稀有な豊かさを秘めた単純なもの」として受け取っているのであろう。

おそらく自然的事物をモデルに事物の存在構造を考えているかぎり、そういうことになると思うのだが、ソクラテス以前の思想家たちのもとでは、というよりもともとギリシア人はそうした存在了解をおこなっていたと、ハイデガーは言おうとしているのである。

木田元氏のこの部分、難しいことは何も書いてありませんので、お読みになれば、おそらくはご理解いただけるでしょう。余計な言葉を付け加える必要もなさそうです。

稀有な豊かさを秘めた単純なもの」につきましては、たとえば木目模様などを考えていただければイメージがつかめるかもしれません。

木目模様が表面に印刷された樹脂パーツであれば、木目模様と樹脂素材は別物として分けて理解することも無理はありません。

でもこれが実際の木材となりますと、その木目模様にはどれ一つ同じものがなく、それぞれの模様(年輪)にはその樹木の生涯が刻まれており、さらには日照時間や気温などの地球環境の変化もその模様に影響を与えております。

単純な木材のかけらといえど、自然が作り出したものには恐ろしいばかりの物語が含まれています。そしてその物語こそが当の木材を生み出した歴史であり、また、木目自体が木材を構成しているという一面もあるのですね。

彫刻や絵画の場合は、白い均質な石材や、粘土やブロンズなどの均一な素材を用いて像を形成しますので、素材自体の模様は鑑賞者には伝わりません。また、形成されるものも、作者の製作時間との兼ね合いで、そうそう複雑なものもできません。

でも、自然物の場合は、路傍の石といえども、ビッグバン以来の宇宙の歴史の結果を受けてそこにある。小石であっても、これをスライスすれば、数多くの結晶をその中に認めることができます。これらは、地中の深くで、高温高圧を受けて形成された結晶であって、その模様はどの石をとっても、すべて微妙に異なる。

以前のブログでも書いたのですが、養老孟司氏はその著「唯脳論」の中で今日の世界が「脳化」していると説きます。われわれが日々目にするものは、人工物であり、誰かの作品なのですね。

しかしながら、都市といえども、その中にある人工物を構成している小石や植栽といった要素要素は自然であり、それどころか道行く人々も自然の産物ではあるのですね。

禅の思想は、主客分離以前の姿を見ようとするものであり、主観に対応する本質存在と客観に対応する事実存在とに分離する以前の「稀有な豊かさを秘めた単純なもの」としての事実存在を見ようとするハイデガーの思想とも相通ずるところがあります。

人は大地に向き合えば、土壌にせよ草木にせよ動植物にせよ、自然の作り出した数多くのものに触れることになる。そして、それらの本質をそこから取り出して分離することなど不可能であることに気づくでしょう。

自然の事物は、そこにまさにあるように存在しているのですね。それは、草であり樹木であり、そういってしまう限りでは単純でつまらないものであるかもしれませんが、そこには人知を寄せ付けない、恐るべき複雑さと深い物語が含まれている。自然はそれを、大地に向き合う人に語り掛けてくるのです。

これはちょっと余談ですが、この考え方は米国の若者(ヒッピー...)にも伝わり、例えばパーシグは「ブッダや神が花びらや山の頂に住んでいるのと同じように、デジタル・コンピュータの回路やバイクの変速ギアの中にもそのまま真理が宿っているのである」などと語っております。

多分、最初のアップルのPCを作ったウォズニアックは、そこに気づいたのではないか、という気がいたします。なにぶん彼は、後に得た資金を使ってウッドストック・フェスティバルの再現を試みていますので。

ウッドストック・フェスティバルは1969年に屋外で開催された音楽フェスティバルでした。

この地に集まった米国の若者たちは、雨に打たれて自然と向き合い、そのことに気づいたのではないか、と思うわけです。で、メラニーはレイダウンの着想を得るというわけです。

ま、余計な話ではありますが、あの時何が起こったのかということに生きているうちに気づけたことは大いなる幸せではありました。ちなみに、メラニーのレイダウンは、こちらが良さげです。余談、ここまでです。

ハイデガーは、アリストテレスなどのギリシア思想に親しみ、おそらくはそれ以前のギリシア思想の東洋的部分を見出したところに鈴木大拙氏の思想に触れて、このような方向性を固めていったのではないか、という印象を受けます。

2400年前にソクラテス、プラトン、アリストテレスの確立した西洋哲学は、その後キリスト教の世界観の標準理論となり、長い間、ヨーロッパの思想の中心となっております。

彫刻に想を得て存在に作者の意図を持ち込んだアリストテレスらの「西洋哲学」は、神を創造主とするキリスト教の教えにマッチしたことから、教会の支持を受けたのですね。

これに対して、デカルトが懐疑論を投げかけ、ニーチェが「神は死んだ」と叫び、カントは神の首を切り落とす(ハイネの表現)。そうして、ギリシア時代に始まる西洋哲学の基本思想に大きな疑問が投げかけられはしたのですが、いまだカントの思想がヨーロッパの標準理論になっているとはいいがたい。

ハイデガーは、ナチスとの関係故に嫌われはするのですが、おそらくは、カント哲学を継承し発展させる正統の後継者ともなりえたのではないか、という気がいたします。

でも肝心かなめのところでハイデガーは、生活を優先して、日和見をしてしまった。これは、人類の思想史にとっても、大きな損失であったように、私は思います。


11/29:文章を多少追加しました。

12/13-19:同じく文章を追加しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です