流行り廃れた「ポストモダン」再考

1979年にリオタールが書いた「ポスト・モダンの条件」以来、流行りモノでしたけど、最近は、トンとこの言葉、聞きませんねえ。でも、これに代るモノも出てこない。今回は、ポストモダンについてちょっと考えてみましょう。

ポストモダンとは「大きな物語の終焉」であると、リオタールは言います。この、大きな物語ってのは、近代化が人々を幸せにする、ってな話で、皆がこの話に疑いの目を向けるようになっちゃったってことですね。

ポストモダンの意味は、モダンの後、モダンってのは近代的ってことで、まあ、科学技術万能、人間社会は限りなく進化するなんてことをモダンな人は信じていたんですけど、それはどうやら、怪しい、ってのがポストモダンの出発点、皆も不審に感じちゃったんですね。

デヴィッド・ライアンは、映画「ブレードランナー」の世界にポストモダンを見つけます。この映画の背景となったロサンゼルスの荒廃した風景と、登場人物たちの現実感、自己の喪失をポストモダニティの特徴であると指摘します。

日本で言えば、後楽園遊園地かな? 巨大なジェットコースターと近代的なホテルやドーム球場、その下には場外馬券売り場にたむろする人たち。これって、いかにもポストモダン的!!

思想というのは、多くの場合、社会を変える力を持つんですけど、ポストモダンな人たちは、投げちゃっているというか、その世界に安住するというか、社会を変革する力を持たないどころか、そのそぶりも見せないんですねえ。そこが、えらく、時代にマッチした、おしゃれな思想でもあったんでしょうけど、人類が直面している全地球的問題を前に、そんな姿勢が許されるわけもない。

もちろん、ポストモダンの思想家が提起した問題は、確かに存在するんですねえ。時代の流れというか、、、これは何とかしなくちゃいけない。うーん、しかし、これは長くなりそう、、、続きは、後日お議論することにして、最後に、ライアンの「ポストモダニティ」から引用します。これ、この日記のテーマに極めて近く、ここでポストモダンを扱う理由もご理解いただけるでしょう。

ボードレールの著名な表現である「遊歩者」は,モダニティの精髄を吸引しながら首都の街路を放浪し,商店街を通り過ぎていく.移ろいやすく瞬間的で皮相的なものを認知することは,モダニティに関するすべてを把握するために支払われる代償である.ジンメルによれば,遊歩者は匿名であればこそ,モダニティを知りつくしているのである.彼らこそ,異人たちのなかの異人である.