哲学に関するたたき台、その2

昨日に引き続き、哲学的考察を続けます。昨日は、少々先を急ぎすぎましたので、本日は、少し後戻りしたところから始めます。場所的には、4の後あたりに挿入することが妥当か、と思いますので、番号を5から始めることにいたしましょう。

5. 人に関する二つの見方

人の知的活動は、ニューラルネットワークの情報処理活動であり、きわめて複雑ではあるのですが、自然の法則に従った、物理現象の一つであると考えられています。少なくとも、人の知的活動に、魂、などといった超自然的存在が関与しているという兆候は、これまでのところ見出されていません。

しかし、通常、日常生活の世界であれ、公的な場であれ、人は他人の知的活動を、ニューラルネットワークの情報処理活動とみなしているのではなく、知性と感情を持ち、論理的な思考を行い、言語表現をする主体とみなしています。

これはちょうど、本を読む人が、そこに、セルロースに付着したインクを見出しているのではなく、それらを通して表現された物語なり美なりを見出しているのと類似した現象です。

もちろん、人は考える主体としてのみ存在しているわけではなく、ニューラルネットワークとしても存在しており、ある局面においては、そういう概念で捉える必要があります。たとえば、医者は人を物体として扱うことになるのでしょう。これは、印刷業者が本を印刷するとき、その本の内容にはほとんど関心が払われず、もっぱら紙とインクの付着状態に注意が払われることと似ているように思います。

6. システムとしての社会と人

知的存在として人をとらえる場合も、考える主体としてとらえる場合と、操作の対象としてとらえる場合の二通りを区別しなくてはいけません。

たとえば、商品の販売量を増やすためには、どのように宣伝を行えば効率的か、などと考える場合、消費者は考える主体、というよりは、宣伝に対して特定の反応をする物体(ブラックボックス)である、と考えて分析、検討を行います。同様な方法は、選挙で得票率を稼ぎたい場合にも、あるいは教育の場などで、いかにすれば学力が伸ばせるだろうか、などということを考える場合にもとられる手法です。

一方、通常のコミュニケーションの場においては、相手を、自分と同じ、考える主体とみなして会話が進められるのが普通のやり方です。もちろん、政治的な目的や、商売上の目的から、相手をブラックボックスとみなして、特定の方向に導くように、会話が進められる場合もあるでしょう。でもこれはあまり歓迎されるやり方ではありません。

まあ、電話勧誘のセールスマンや、容疑者に白状させようとする刑事などは、一対一の会話であっても、そんなやり方が一般的なのでしょうが。

人を、インプットに応じてアウトプットがあるブラックボックスである、とみなし、社会をその集合物である一つのシステムとみなす生き方は、学問の方法論として悪いものでもなく、実用的なものでもあるでしょう。でも、それは、道具として、技術としての社会学であり、人と社会のかかわりに関しては、考察の対象外。ブラックボックスの内側の存在なのですね。

少なくとも、私がここでみていきたいのは、ブラックボックスの内側に閉じ込められた、人と社会のかかわりでして、このためには、システム論は役に立たない、と思います。

7. 考える主体としての他者

自らの感情なり思考なりは、自らの意識の内にあるのですが、同じような知的活動を他者も行っている、と信じて行動しています。もっとも、その考えていることがみな同じである、なんてことは誰も思っておらず、それぞれの立場、役割に応じて異なることを考えている、ということは、みなわかっているはずです。役割なり、社会関係も常識のうちなのですね。

何人かの人で構成された集団は、およそ、考え方を共有している。たとえば学校のクラスなり、会社なり、役所なり。大きな会社や役所なら部や課、ですね。そんな中に入った人は組織の考え方でものを考え、組織全体でものを考える、なんてこともあります。まあ、学校なら、ホームルームを考えていただければよいのではないかと思いますが、学祭の出し物を何にしたらよいか、なんてことを、クラスの全員が考えるのですね。

知的活動というものは、人の専売特許ではなくて、人の集まった組織でもできること。その一方で、個人のものの考え方は、周りの社会に影響され、社会の常識を自分の常識として取り入れていくし、考えるための方法や前提も、社会から受け入れていくのですね。

コギト・エルゴ・スム、われ思う故に我あり、は間違ってはいないと思うのですが、それ以前に、思う我は社会によって育まれたのだし、こんなことを言うこと自体、社会に向かって発言している。デカルトが自分の存在を疑うのは、存在が自明の人間社会の中での行為、であったわけです。

8. 昨日の5

9. 正義と問題解決の道筋

それぞれに異なる文化・常識を共有する多数の社会が並存する一方で、人々の交流は社会の壁を超えて行われています。学術や経済の世界は既に、地球全体をカバーする唯一の社会の上で活動を続けています。

問題は政治・宗教の世界でして、米国とイスラムの反目、ヨーロッパにおける移民の問題、東アジアにおける、特に日本を巡る歴史認識の問題など、解決の糸口すらみえない問題が多々あります。これらはいずれも、文化・常識を異にする集団間での認識の違いが、その問題の根底にある、と考えられます。

こうした問題を前にするとき、唯一絶対的な正義が存在する、という確信は、問題解決に役立つどころか、かえって事態を悪化させる結果につながりかねません。

もちろん、そんなものない、と断言はできません。いつの日か、人類全体で共有できる正義が存在する日が来るのかもしれません。しかし、今日、そうした正義が存在すると主張するためには、それを地上のすべての人たちに納得させる必要があります。現実には、それができないから問題があるわけで、問題があるという現実からスタートすれば、唯一絶対的な正義は存在しない、という前提で物事を考えざるを得ません。

10. ローカルとグローバルの階層化という解の可能性

またしても、えらく長くなってしまいましたので、本日はこのへんで終わりにします。結論は見えているのですが、なかなかそこに至らないのが、なんとも歯がゆいですね。