正義と倫理の問題。自然現象、なんだけど、、、

人の精神的活動は、今日では、大脳にありますニューラルネットワークの働きで説明され、たましい、などの超自然的な存在が物理的作用を行っている可能性は否定されています。

ニューラルネットワーク、情報処理を行う、計算機のような装置なのですが、相違点もかなりあります。このニューラルネットワーク、140億ほどのニューロンが、それぞれ千前後のシナプスにより他のニューロンと接合しており、ほぼ同時並列に情報処理を行っています。

ニューロンの個数は、生まれたての赤ん坊ではもっと多いのですが、生涯増えることはなくて減る一方。年寄りになりますと50億個ほどに減ってしまいます。で、人の知恵というのは、シナプス接続のなせる業でして、学習により新しい接合が生まれるわけです。

同時に活動しているニューロンの数は全体の10%程度。それでも10億の並列マシンですから、パソコンよりも機能は上。ま、クロック周期がkHz程度でして、CPUのGHzに比べると百万分の1、おまけにバス幅は1 bitなのですが、並列数を考えるとパソコンよりは相当に高機能な情報処理装置です。速度では負けているけど、複雑さでは完全に勝っている。ま、人のニューラルネットワークとパソコンを比べると、そういうことになるのでしょう。

さて、人の精神活動は、個人個人のニューラルネットワークのなせる業なのですが、実はこの装置、スタンドアロンではありませんで、互いに情報交換を行っております。つまりは、他人と会話をし、テレビを見たり、本や新聞を読むという行為は、個々のニューラルネットワーク間の情報交換活動であるわけでして、ネットに接続されたPCと似た形になっているのですね。あ、インターネット、PC同士を接続しているのですが、実は人間同士のコミュニケーション手段でもあり、このニューラルネット、なんとインターネット接続になっているのですね。

人の精神活動は、このニューラルネットの活動で、自然現象の一つです。また、社会的活動もニューラルネット間の情報交換ですから、全ては自然現象でカタが付きます。でも、そのニューラルネットが扱っている情報の内容を議論する場合には、自然現象であるという説明では、何の役にも立ちません。本を、インクの付着したセルロースの薄片を束ねたものである、なんて言ってるようなものなのですね。

でも、精神が情報処理活動であって、社会はその間の情報ネットワークである、という基本認識は、社会を考える上での基礎になります。つまり、どこにも本質的なものなどない、ということが大前提になるのですね。

結局のところ、正義とか、倫理とかいうものは、どこかに絶対的な基準があるわけではなく、個人個人のニューラルネットの中に存在するもの。他人とのコミュニケーションを通じて、共通化、統一化が図られているものであるわけですね。

これはちょうど、ネット経由でOSをバージョンアップしているようなものなのですが、一律ではないし、完全でもありません。逆にそんなことをされると怖いものがありますね。

個人が行っているコミュニケーション活動は、その人が属する社会集団によって偏りを持ちます。正義や倫理といったものは、社会集団を超越した世界共通のもの、というある種の前提があるのですが、それでも、所属する社会によって偏りを持ってしまいます。で、社会が異なれば正義も異なる、ということが起こってしまうのですね。

まあ、極端なたとえ話をすれば、××組の組員には、組の正義があるのでしょう。でも、それは外部の社会の正義とは相容れない部分がある。ま、そうであったと致します。そうすると、周辺社会とトラブルを起こすことになるのですね。

現在の世の中、国家の内部では、一応、法律もあるし、裁判所もありますので、話がこじれれば司法のご厄介になる、という最終手段も選択できます。でも、国際社会には、一応、裁判所もあるのですが、百パーセント機能している、とはいえません。まあ、裁判所のご厄介になる以前に、皆がまともな行動をすることが肝心なのであって、それには、共通の正義と倫理を個々のニューラルネットにロードしておくことが欠かせないのでしょうし、それには、隔たりのないコミュニケーションが重要である、ということになるのでしょう。

ちょっと中途半端ですが、本日はこの辺で、、、