フッサール「ブリタニカ草稿」に思うこと

先日神保町に出かけた折に買い求めた本の一冊に、フッサール著「ブリタニカ草稿」がありました。まったく最近の文庫本は、何から何まであるのですね。ま、文庫にしてはちょっと高いのが難点ですが。

この本は、百科事典のブリタニカが「現象学」という項目の原稿をフッサールに依頼して、フッサールとハイデガーが協力して書き上げた、現象学に関する簡単な説明、ということになるのでしょうが、これがなかなか難物です。

まあ、百科事典の一項目ですから、さほど長いものでもなく、すらっと読めるはずなのですが、これを読むには別の百科事典が必要になりそうです。この短い記事を文庫本にするために、草稿の色々な版を収めてあり、かつ長い解説がついております。まずこの解説の部分が一番参考になるかもしれません。

で、この本の内容につきましては、もう少々咀嚼が必要なのですが、ざっと目を通して受けた印象は、「現象学は心理学である」とフッサール自身が規定していることに対する驚き、なのですね。

まあ、もう一つは、ちょっとあきれてしまう、といいますか、あたかも現象学の広告宣伝をブリタニカに入れてしまえ、と考えたかのごとき文章が散見されることでして、これ(現象学)さえあれば全ての問題が解決します、といった誇大広告的文言がみられることです。まあ、フッサールはそう考えていたのかもしれませんが、その後の思想界の展開を見れば、(ひかえめに言っても)必ずしもそうとはいえないと思います。

さて、心理学には二通りのアプローチがありまして、ひとつは(精神的な問題を抱えた)患者を前にして、その深層心理を分析して問題の解決を図る、といった、客体としての人の心理を探ろうというアプローチです。もう一つは、自分自身の心を内省することで、心の構造を探ろう、というアプローチです。

で、フッサールのアプローチはもちろん後者。デカルトの、コギト(我思う故に我あり)を、更に深めようといった形で現象学を展開するわけです。

しかしこういったアプローチは、少々不毛なアプローチではなかろうか、と思うのですね。

まず第一に、それが学問であるためには、普遍的な真実、つまり他人も理解し、納得できる形で結果が提示されなければなりません。そうなりますと、内省の結果といえども、最終的には客体の形で提示されなければならず、実証が要求されます。

結局のところ、心理学として哲学を深めようとすれば、臨床的な研究も欠かせません。フッサールの後継者と目されておりましたメルローポンティが、ゲシュタルト心理学に深く入り込んでいったのは、この必要性を認識したからではないか、という気がします。今日では、更に、脳科学とのリンクも要求されるのではないでしょうか。

内省的心理学で哲学を構成する第二の問題は、人の心の全てが意識に上るわけではない、という問題で、人の理性は無意識の部分に左右されます。これは、生まれ育った環境やこれまで受けた教育に左右されるもので、そんな意識で考えた結果に普遍性を持たせようとするのは大問題である、と私は思います。

結局のところ、フッサールのなした最大の業績は、相互主観性(間主観性)の上に客観を再定義したことであって、現象学的還元という心理学的アプローチには、あまり重きを置くべきではないのではなかろうか、という風に、今では思っております。

フッサールの提示したもう一つの大事な点は「生活世界」でして、こちらも多義的な難しい概念なのですが、これについては、学問の価値、真理の意義との関わりできちんと捉える必要があるのではないか、と思います。

まあ、私のしようとしていることは、フッサールの思想を忠実になぞることではなく、少し前からはじめております「オブジェクト指向の哲学」に、先人の考えをきちんと織り込んでおく必要を感じているからです。でも、あまり先人に深入りしすぎると先に進まなくなってしまいますので、ほどほどにしなければいけません。無視すべきところは無視する、という枝刈の発想も必要なのですね。

さて、明日は曇りという絶好の読書日和。夏休み最後の一日は、プールサイドのデッキチェアでフッサールの「ブリタニカ草稿」を読む、なんてちょっとおしゃれに過ごしてみようか、などと考えております。また何かコメントすることがありましたら、明日のこのブログに記載することといたします。