「物理法則はいかにして発見されたか」を読む

物理学者の自然認識を垣間見るひとつの手立てとして、ファインマンの「物理法則はいかにして発見されたか」を読み返してみました。少々古い本ですが、物理学の素人にも判り易く書かれているのはありがたい話です。

1. ファインマンの哲学者嫌い

しかし、この方、哲学者のお嫌いな方ですね。どうも、数学のわからない哲学者に散々悩まされた様子です。以下にファインマンの文章を引用しますが、少々穏やかならぬ表現であるように、私には思われます。

G.P.スノウは二つの文化ということを申しました。二つの文化といえば、一方には、自然を賞でるのに十分なだけの数学を一度でも理解した経験をもつ人々が属し、他方にはそういう経験のない人々が属することになるのだろうと、私は思います。
……
つんぼの人に向かって音楽の感動を説いてもむだでしょう。どんなに知恵をしぼってもだめであります。同様に、どんなに知恵をしぼって議論をたててみたところで、「あちらの文化」に属する人々に自然の理解を伝えることはできますまい。哲学者なら、自然について定性的な話をしてあなた方を教育しようとするかもしれません。私はありのままをお伝えしたいのです。うまくいっていないのは承知しております。もともと不可能なことなのです。この方法には限界がある。宇宙の中心は人であるという説がまかり通っていられるのも、おそらくそのせいでしょう。

またしても人間原理ですね、「宇宙の中心は人であるという説」は。なんか、宇宙人や未来人や超能力者にハルヒの話を聞かされる、キョンの心境になりそうです。

2. 還元主義

さて、ファインマンの世界認識は、自然科学の認識でして、いわゆる還元主義。すなわち、生物は器官の集まりに還元され、器官は細胞に、細胞は分子に、分子は原子に、原子は素粒子に還元されます。ファインマンに言わせれば、次のようになります。

宇宙の諸現象は、いろんな階級、あるいは階層に分けて考えることができます。……一方の極限には物理の基礎法則があります。そのつぎに私どもは近似的な概念をいろいろ取り出して名前をつけます。これらは最終的には基礎法則によって説明されるべきものです。たとえば「熱」。この熱というものは不規則運動だと考えられる。もうひとつ階段を上がりますと別の階層があります。物の性質に関する諸概念がくる。……階層をもっと上にまいります。水には波がたちます。嵐というものもある。 …… この複雑さの階段をもっと上にのぼりますと、筋肉の収縮とか神経を伝わる電気信号とかに出会うでしょう。
……
たくさんの研究者たちが、中間の階層で上下の一段につながりをつける仕事をしております。世界に対する私たちの理解を進めているわけです。階層の両端で働く人々、中間の階層で働く人々―こうした人々のおかげで、複雑に結ばれた多層建築である、このとてつもない世界を、私たちは徐々に理解していきつつあるわけであります。

もちろん、ファインマンは科学者であり、物理学者であるわけですから、その職業上の世界観というものはこうした形になるのでしょう。しかしそれですべてが語れるのか、という点は大いに疑問があるわけで、たとえば、他人の心を推し量るに、神経を伝わる電気信号の様相にかかわる知識は、何の役にも立たないと思うのですね。

世界を認識するには、さまざまな方法があり、分析的アプローチはその一つである、と思います。それは悪くないアプローチではあるのですが、だからといって他の見方が価値のないものである、ということにもなりますまい。

3. 生物機械論

さらに、ファインマンも昨日ご紹介した利根川氏と同様、生物機械論を支持します。これは私も否定しません。ファインマンの場合、たこの足の運動を例にあげて、次のように述べております。

生物界に起こることは物理的・化学的現象のあらわれであって、それ以外に「エキストラ」は関与していないということです。……生き物が完全に理解されつくすことはまずないとしたら、可能性はつねに無限であります。そのうえ、タコの足がゆらゆらと動いているのは、ほかでもない、原子どもが既知の法則に従ってうごめいているのだといわれても、これを信じるのは容易でない。しかし、この仮説を足場にしてタコの足の運動を追及すれば、その仕組みをきわめて正確に推測することができる。理解が大幅に進むわけです。まだタコの足は健在であります。私どもの仮説が間違っている兆候はみつかっていません。

と、いうわけで、ファインマンの関心はタコの足にとどまっているのですが、これが人間の精神的働きにまで及んだ場合はどうなるのでしょうか。ファインマンはこれについて何も語ってはいないのですが、もしもこの部分を考えることがあれば、利根川氏と同様、唯心論、といった哲学的基盤にも考えを及ぼさざるを得ないのではなかろうか、という気がいたします。

4. 量子力学と自由な精神

その他、観測問題に関しましては、ファインマンはあっさりと人間原理を否定しておりますが、電子線の粒子性と波動性の奇妙な振る舞いについてはページを割いて説明しております。で、ファインマンの立場は、自然現象を記述することであり、かくあるべしというべきではない、ということなのですね。この説明の最後に近い部分のファインマンの言葉を引用いたしますと、次のようになります。

電子がどっちの穴を通るかあらかじめ知ることはできない。干渉図形が現れるかぎり、その予言は可能であってはならないのであります。……こう申した人があります。「自然だって電子がどっちにいく気か知らないのだ」
……
「科学の存立」には何が必要か、自然はどんな性格をもっているか。これらは人間がきめることではありません。これらは、私どもの研究対象、つまり自然そのものが決めることです。私たちは観察をします。そして何がそこにあるかを知るのであります。……科学の存立のために必須なのは、自然とはかくあるべきものだなんていう哲学めいた予断を認めない自由な精神なのです。

ファインマンの哲学嫌いは、こんなところにも顔を出していますが、自由な精神の必要性を認める、ということは、還元主義的世界観とは矛盾しております。結局のところ、ファインマンの世界観は、自然科学の観察対象の世界に限定されており、研究者を含む世界に対しては、別個の世界観があるものと思われます。

量子力学のややこしいところは、観測という行為自体が観察対象の世界に含まれてしまう、という点にあります。つまり、観察者である物理学者自身も、物理学の対象とする自然の一部とせざるを得ません。観察対象である世界と物理学者自身の精神的働きとを区別して扱う、というのなら、何らかの基準なり、識別原理なりが必要となるはずです。これには、哲学的考察も避けては通れないのではないでしょうか。

もちろん、この哲学的考察が、ファインマンが手を焼くような、物理学と矛盾する哲学であっては困るのですが、、、