「西洋哲学史―近代から現代へ」を読む

以前のこのブログで西洋哲学史―古代から中世へ」をご紹介いたしましたが、今回は、「西洋哲学史―近代から現代へ」をご紹介いたしましょう。

1. 哲学、その進歩

このブログで扱っております哲学は、デカルトからフッサールまでを視野においておりまして、近代から現代が対象。つまり、前回読んだ部分は、ある意味、的外れな部分でして、今回読んだ部分が興味の中心、であるわけです。

同書の全般を通しての感想といたしまして、まず、大勢の哲学者が登場することに驚かされます。

もちろん、それぞれの方が、それぞれの意見をお持ちで、こういった考え方の総体として現代の哲学がある、ということは否定できないでしょう。でも、こうも大勢の方々に出てこられてしまいますと、何を信ずればよいのか、良くわからないのですね。

最近の哲学者の書かれた解説書を読んで、常々感ずることなのですが、どうもこれらの書き方が、様々な考え方を紹介することに力点を置いており、哲学という学問の進歩の道筋、といったものが良く見えません。

と、いうよりも、実際のところ、哲学という学問は全然進歩などしていないのではないか、という疑問さえ抱かせてしまうのですね。で、この疑問は、ひょっとすると、事実なのかも知れない、などという疑問も、、、

これには、種々の理由がありそうでして、まずは、哲学がその初期において弁論の術として発達した、という事情があるのでしょう。この伝統は、ヘーゲル、ハイデガーなどにも引き継がれている様子でして、ヘーゲルに「同一性は、じぶん自身にそくして、絶対的な非同一性である」などといわれましても、ハイデガーに「存在者の存在のなかで無の無化が生起する」などといわれましても、ちんぷんかんぷん

ま、このブログでは、これらの、議論のための議論のような、わけのわからない戯言は無視することにいたしまして、自らの疑問に答えてくれそうな論理を探ることといたしましょう。まあ、このわけのわからない議論の中にこそ、哲学の醍醐味がある、のかも知れないのですが、、、

2. 宗教の問題を解決したカント

哲学の進歩を妨げたもう一つの要因として、宗教の問題があるのではないか、と思います。この問題は、デカルトの真理探究の大きな障害になったことは良く知られているのですが、神の存在を認める以上、絶対的な真理の存在を認めざるを得ず、ある種の縛りを思索に課すことになります。

しかし、この縛りを解いたのがカントである、と同書は「カントは神の首を切り落とす」とのハイネの言葉を引いて説明します。結局のところ神がどのような存在であるのか人は知りえないと、判断力批判の次の箇所を引用いたします。

『死すべきもののうちだれも、私のヴェールを剥ぎとった者はない』。神殿に刻まれたこの碑文こそが『もっとも崇高な思考』を刻む

カントにつきましては、以前のこのブログでも、その著書「プロレゴーメナ」をご紹介いたしましたが、絶対知を否定するその姿勢は、このブログで私が展開している思想に極めて近いものと考えております。

3. 哲学の芯はいずこに

さて、同書の哲学者の紹介は延々と続くのですが、これをいちいちご紹介するのもたまりません。こまごまとした話題につきましては、いずれまた気が付いたときに議論することといたしまして、ここでは全体を通しての印象につき一言触れておきたいと思います。

近代から現代に至る哲学の芯を貫いておりますものは、崇高な真実、輝けるものを求めたいとの人の思いと、人は間違いをしでかす存在であるという戒めの対立であるように、私には思われます。

この崇高な真実とは、TPOによりけりでして、あるときは神であり、教会の権威であり、またあるときは唯物弁証法的歴史観であり、プロレタリアート独裁政党であり、あるときは民族であり、あるときは物理学であり、あるときは高貴なる自分自身であり、またあるときはグローバルスタンダードであります。

しかしこれらの崇高な真実が、近代から現代という時代の流れの中で、いかに多くの不幸を招いたか、ということを省みれば、このような思想は人類にとって極めて危険なものである、といわざるを得ないでしょう。

結局のところ、人の思考能力は有限であり、間違いをしでかす存在である、ということを認めざるを得ないのではないでしょうか。その事実認識を、すべての議論の根底に据えてこそ、思想は健全であり得、世界認識を深めることもできる、というものでしょう。

そう考えますと、デカルトがあり、カントがあり、フッサールがある。この流れを近代以降の哲学の本流と捉え、その思想の発展を省みる、という形が、西洋哲学史のあるべき姿なのではなかろうか、と思う次第です。

その他、同書に抜けていると思われるのが、サルトルの実存主義と、レヴィ・ストロースに始まる構造主義でして、まあ、サルトルを削除するのは一見識、と言えなくもないのですが、構造主義からポストモダンへの流れや、ヴィトゲンシュタインの論理哲学からソシュールらの言語哲学への流れなども解説していただけるとありがたいなあ、という感想を受けました。

まあ、どう書くのも著者の勝手、ではあるのですが、、、

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