サイード著「オリエンタリズム」を読む

本日読みます本は、エドワード・W・サイード著「オリエンタリズム(上)(下)」。今日の世界の文化、なかんずく東西文化の対立を語る上で、外してはならない一冊です。

1. オリエンタリズム雑感

同書を読む必要はつねづね感じていたのですが、上下巻あわせて900ページを超える学術書、これまでの私は、少々、腰が引けておりました。でも、このたびのゴールデンウイーク、前後に分かれてかなりの日数があるうえ、長時間の列車の旅も予定されておりましたことから、車中の暇つぶしをかねて読むことといたしました。

読んだ印象ですが、まず、非常に読みやすい本です。何よりも文章がこなれております。あとがきによりますと、この翻訳は監修者であります東大教養学部の板垣雄三教授のゼミのレポートを下敷きにしているとのこと。訳者の今沢紀子氏は、板垣教授と、ゼミ参加者の一人、杉田英明氏の監修(というよりも共訳に近い協力)を受けたとのことです。

結局、訳者が同書の内容を完全に理解しており、複数の目で訳文をチェックされているわけですから、翻訳のクオリティーも高く、読者にも読みやすい書物となったものと思います。そういうわけで、お買い得の一冊、といえるでしょう。

本は分厚く、内容は学術的ではあるのですが、アラビアを中心とする「オリエント」に対する西洋の理解のあり方を、時代をおって記述する優雅な一冊。同書を読めば、悠久のときの流れに身をゆだねる、豊かな時間が流れていくのが実感できます。ま、長旅のお供には好適な一冊、ではありますね。

前置きが長くなってしまいました。内容のご紹介をいたしましょう。

2. 偏見としてのオリエンタリズム

同書の章立ては、「序説」に続きまして、「第1章:オリエンタリズムの領域」、「第2章:オリエンタリズムの構成と再構成」、「第3章:今日のオリエンタリズム」の3章構成となっておりまして、下巻の後半には、監修者杉田氏によります、かなり長文の解説が付属しております。

第1章の議論の中心は、「オリエンタリズム」というものの考え方が、固定的な、型にはまったものの見方であり、ある種の偏見である、という主張です。

古くは、少ない情報からオリエントが理解される。特殊例が普遍的なものとして理解されてしまいます。そして、一旦出版された書物が次の研究の土台となり、オリエント学が実在のオリエントを離れて一人歩きする、という結果になります。著者はこれを次のように語ります。

オリエンタリズムとは、東洋的とみなされる問題、対象、特質、地域を扱うさいの一つの習慣にほかならず、これを行うものは誰であれ、自分が語り、考える対象を、ある言葉や言い回しによって指示し、命名し、固定する。すると今度は、その言葉や言い回しが現実性を獲得し、あるいはもっと単純に、それが現実そのものとみなされるようになるのである。……心理学的に見れば、オリエンタリズムはパラノイアの一形態であり、例えば通常の歴史的知識とは別種の知識である。

と、いうわけです。そして、そのような偏見を持って西洋の人々はオリエントを旅し、あるいはナポレオンのようにエジプトに軍を送る時代が続きました。

3. 外的世界と内的世界

それにしても、同章の最初にありますキッシンジャーのものの考え方は、少々考察の必要があります。つまり、同書によりますと、次のような考え方ですね。

先進国すなわち西洋は、「現実世界が観察者にとってあくまで外在的なものであり、知識とはデータの記録および分類―それらは正確であればあるほどよい―から成り立っているという考え方にしっかりと依拠している」。この点についてキッシンジャーが提示する証拠は、ニュートン学説による思想革命であって、途上国世界ではそのようなものは現在に至るまでついに起こらなかったとするのである。「早期にニュートン学説の洗礼を受け損なった文化は、現実世界がほぼ完全に観察者の主観の内側にあるとする本質的にニュートン学説前の世界観を、今に至るもなおもち続けている」というわけだ。そこで、彼はこう続ける。「新興諸国の多くにとって経験的現実とは、西洋にとってのそれから著しくかけ離れた意味をもっている。なぜなら新興諸国は、ある意味で、そのような現実を発見する過程をまったく通過しなかったからである」、と。

これにつきましては、私なりにちょっと考えてみましょう。

まず第一に、ニュートン学説は、当然のことながらニュートンが唱えたものであり、西洋諸国全体の手柄とするのは、少々言いすぎです。これは、西洋諸国においては、ニュートン学説のような、科学的教育が行われている、と解釈すべきでしょう。

と、なりますと、途上国世界で問題になりますことは、ニュートンがいたかいないか、という問題ではなく、教育の内容、ということになります。この点につきましてキッシンジャーの吟味が欠けているといたしますと、少々根拠薄弱な論説となります。

また、米国の一部で行われております進化論を否定する教育(それがキリスト教の教えに反するから、という理由で)も、大いに非難されなければならないと思うのですね。少なくとも、現在の米国、えばれたものではありません。

第二に、現実世界が主観の内側にあるとする考え方は、先進国におきましても、否定されている考え方ではありません。デカルトは、自然界に存在するモノは広がりだけであり、色や形などの属性は意識の中に生じるとしておりますし、カントも概念を意識の中の存在としております。

その後、外在する客観と、それを意識した結果である主観を同じ論理空間におき、知的活動はその一致を目指すのであるとする素朴な考え方は、主客一致論争を経て否定された、と私は考えております。その結果生き残ったのは、現象学的世界観であり、知覚の対象としての外界の存在は認めるものの、概念をもって構築された世界は、第一に主観の中にのみ存在し、第二に、他者と共有された主観であります「間主観性(相互主観性)」の内部にのみ存在しうる、と考えるしかないのですね。

一方、英米思想の主流でありますプラグマティズムは、このような形而上学的考察を軽視する傾向にあり、人の主観とは独立の「客観」を素朴に認めます。このような考え方は、「神の視座」でありまして、同じことを社会的ルールにあてはめましたのが「グローバルスタンダード」ということであるのでしょう。

現在の物理学者の多くも、神の視座から自然現象を把握しようと考えております。しかし、量子力学の観測問題でこの考え方は壁に突き当たっており、はなはだしい場合には、宇宙は観察者の登場を待っていた、観察者の存在以前には宇宙は存在しなかったという「人間原理」に行き着いてしまいます。

また、脳科学の発展は、人間の意識を自然現象として説明する一歩手前まで到達しており、マイクロエレクトロニクスの進歩とあわせまして、人と同様の意識を持った装置を人工的に構成することも時間の問題と考えられるのですが、プラグマティズムを信奉する哲学者はその可能性に否定的です。

ここにおきまして語られていない論理は、人が神の視座を得ることができるならば、人の意識は超自然的存在でなければならない、ということでしょう。

しかしこれは、それこそ非科学的な言説。プラグマティズムも形而上学に向かい合わなければならない時代。それが現在である、と私は思うのですね。以上、脱線論議、でした。

4. オリエントに対する屈曲した思い

「第2章:オリエンタリズムの構成と再構成」になりますと、オリエントに対する屈曲した思いが生じてまいります。キリスト教の教義によりますと、神がエデンの園で人間に言葉を授けた、とされていたのですが、その言葉とされたヘブライ語が最古の言葉でもなく、神に由来するものでもないことが明らかにされます。

サイードは触れておりませんが、そもそも人類の太古の文化は、四大文明であります、エジプト、メソポタミア、インダス、中国に始まるわけでして、これがギリシャ、ローマを経て、未開でありましたヨーロッパ全土に広がっていったわけです。

そういった歴史的背景を無視して、進んだ西欧(オクシデント)に対して遅れたオリエントを位置づける考え方に、そもそもの無理があった、と私は思うのですね。

もちろん、西欧に「ニュートンの洗礼」とキッシンジャーが胸を張ります、近代的な自然科学が生まれたことは、率直に評価すべきことです。しかし、その自然科学もアラビア数字を用いておりますことから明らかなように、アラビア、インド、中国の知見の上に打ち立てられたものであることも、また現実なのでして、ニュートンがいたから西洋が本質的にすぐれているのだ等の言説は、無知な小児の戯言に等しい、と私は思うのですね。

と、いうわけで、東洋に対する知識が深まるに従って、オリエンタリズムの信奉者はある種の屈曲した思いを抱くようになります。

5. 植民地支配のオリエンタリズム

「第3章:今日のオリエンタリズム」では、一転して、西洋によります植民地支配の時代に突入いたします。ここにおきますオリエンタリズムは、第一に西洋がオリエントを支配することの正当性の根拠とされます。遅れた東洋を西洋が支配するのは東洋のためでもある、というわけですね。また、オリエントに対する研究成果は、植民地を支配する上での有用な知見でもありました。

とはいえ、植民地支配が植民地の民に幸福をもたらしたわけではなく、宗主国に富をもたらしただけの話でして、もちろん植民地支配の目的も富のため。オリエンタリズムは単なる口実に使われた、というわけです。

さて、同書はこういった歴史を提示し、オリエンタリズムという学問領域が、単なる思い込みであり、現実とは異なるのだ、と批判いたします。この批判は広く受け入れられ、世界の文化人類学に多大の影響を与えました。

しかし、サイードが批判した状況は、西欧が植民地を失った現在に至るまで続いております。近いところでは、ブッシュのイラク侵攻にしたところで、論理はまったく変わっておりません。ブッシュは、イラクの民のため、と主張いたしますが、その実は米国企業の利益拡大を図っているとしか思えない動きが目に付くのですね。

6. 米国社会の健全性と日本の目指す道

とはいえ、政治家の思想的貧困に対して、米国の社会そのものは健全である、という印象をサイード氏の立場と同書出版をめぐる動きから受けます。

まず、サイード氏はイスラエル生まれのパレスチナ人。カイロで教育を受けた後米国にわたり、1970年からコロンビア大学の教授を務めます親PLO派知識人の一人、と訳者あとがきにあります。

なるほど、このような人にきちんと研究をさせる、というのが米国の厚みのあるところでして、同書「オリエンタリズム」が米国の思想界に一定の影響を与えておりますことも、欧米の知識人の健全さを物語っているでしょう。

一方、日本につきましては、少々難しい立場です。まず第一に、日本はオリエントの一員であり、西欧からはオリエンタリズムの色眼鏡で見られる立場です。一方で、明治維新以来、日本は西欧化を進めており、太平洋戦争以前は列強の一員として西欧諸国と肩を並べた時代もあったのですね。

現在の日本は、オリエントとオクシデントの境界に位置する、といえるのではないでしょうか。この状況は、国家のアイデンティティを危うくする一方で、その特異なポジションを生かす道もありそうな気が致します。

まあ、この話題につきましてはまたの機会に議論することといたしまして、本日は、「オリエンタリズム」のご紹介だけで本稿を閉じることといたしましょう。

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