魚住昭著「官僚とメディア」を読む

台風が通過中の3連休、晴耕雨読の休日は、いやもおうもなく雨読とするしかありません。と、いうわけで本日読みました一冊は、魚住昭著「官僚とメディア」です。

1. 検察と一体化したマスコミ

この本の主題は、検察とこれと一体化しております新聞批判です。で、社の経営と記者の都合を第一に考えるマスコミ各社が第一に非難されているのですが、これはまあ、今の世の中であたりまえ、といいますか、使命感に燃えたジャーナリズムがあったらば、それは賞賛するに値するものでありまして、ふつうのマスコミにそこまで期待するのは行き過ぎ、と、私などは考えてしまいます。

一方の検察ですが、こちらが自らの利益を第一に、勝手なふるまいに出ることは言語道断、といわざるを得ません。同書にかかれたことを真に受けるといたしますと、今の日本、腐りきっている、というしかありませんし、この内容を否定できる材料がまったくない、ということ自体、大問題であるように思います。

と、いうわけで、同書のご紹介をいたしましょう。

2. 隠ぺい工作

まず、第1章は「もみ消されたスキャンダル」と題しまして、現職の総理大臣、安倍晋三首相の選挙事務所と暴力団関係者との間のトラブルに関わる記事が、共同通信社内部で差し止められた、という事件に関わる記述です。

現職の総理の選挙事務所が暴力団を使っていた、というのは大問題。でも、共同通信北朝鮮支局の開局を控えて、共同通信社が政治問題にナーバスになっていた、というのはわからないではありません。ジャーナリズムの精神からは記事を没にするのはどうか、とは思いますが、経営学的にはこれはアリ、なのですね。

第2章「組織メディアの内実」では、著者の共同通信社での業務内容につき紹介されます。基本的にはこの方、戦後日本政治の裏の世界を、代表的人物を取り上げて明らかにしていこう、というスタンスでして、最後に出てまいりますのがナベツネ。わかりやすい悪役ではあります。

第3章「悪のトライアングル」と第4章「官僚たちの思惑」では、姉歯による構造計算の偽造事件でして、同書によりますと、この事件は姉歯の単独犯。それを、マスコミと検察が、その他の関係者を糾弾してしまった、という、冤罪事件だった、というわけですね。

類似したケースは、この先多々出てまいりますので、最後にまとめて論評することにいたします。

3. 暴走する検察

第5章「情報幕僚」では、オウム信者の犯行が疑われました国松警察庁長官の銃撃事件を皮切りに、警察発表をそのまま報道するしかない、現在のマスコミのあり方が論じられます。

神田川を浚う警察官の映像が連日報じられましたこの事件、警察の面子丸つぶれの一件ではあったのですが、さんざん犯人扱いして報道したあげくに、証拠不十分で容疑者全員が不起訴となりました、その結果こそが、重要なポイントなのですね。オウムだからなにをやっても構わない、ということにもなりません。殺人犯の人権であろうと、尊重しなければならないのが、近代的な法治国家、なのですね。

第6章「検察の暴走」では、ライブドアと村上ファンドに対する扱いが非難されます。また、ムネオ疑惑におきます佐藤優氏の逮捕や、歯科医師会1億円闇献金事件の村岡氏逮捕(無罪判決)、住専がらみの小林政雄氏の逮捕(無罪判決)、さらには、検察の裏金作りを内部告発した三井環氏の逮捕など、検察の暴走は止まるところを知りません。

最後の、内部告発者のアラを捜し出して逮捕する、というのは、明らかに人倫にもとる行為ですが、その他の暴走事件は、検察の存在感を示すために作り出した事件。逮捕の理由はいずれも微罪であり、検察がちゃんと仕事をしているということを世間にアピールすることがその目的と解されても仕方がありません。

そして、検察から得る情報が命のマスコミも、これらの事件における検察の暴走ぶりをあまり報道しない、という問題がある、と著者は書きます。確かに、村上ファンドやホリエモンに対するマスコミの冷たい扱いは、傍で見ておりましても、少々バランスに欠けるような気がいたします。特に、海外ファンドを野放しにして、日本人だけをたたく、というのは、国益を損ねる行為ですらある、と私は強く思う次第です。

4. 面白いけど軽い話題

第7章「NHKと朝日新聞」では、従軍慰安婦問題で番組改変に政府の介入があったかなかったか、をめぐるNHKと朝日新聞の泥仕合について、その背景を紹介いたします。介入が手の込んだ形で行われたこと、相手の了承を得ずに録音することを禁じた朝日新聞の内規が、朝日新聞側の足を引っ張った、というわけです。管理強化がマスコミの弱体化を招いた、と著者は主張いたします。

第8章「最高裁が手を染めた『27億円の癒着』」では、裁判員制度のPRのために、最高裁、電通、地方新聞が手を組んで税金の無駄遣いをした、という「タウンミーティング」事件について解説がなされます。

まあ、このあたりまでまいりますと、可愛いものだ、との印象すら受けます。地方紙も、電通も、営業が大変であることはよくわかりますし、誰が傷ついたわけでもない、27億くらいの税金の無駄遣い、今の日本で取り立てて云々することでもありますまい、な~んて印象を受けてしまうのですね。

この本、第7章と第8章は、書物の構成上、余計であったような気がいたします。それよりは、第6章をさらに深めることが大事だったのではないか、と思うのですね。

なにが重要であって、なにが重要でないか、報道する価値の軽重を見極めることがジャーナリズムにとって、一番大事なことであるのにもかかわらず、集めたネタの面白さに心を奪われて、肝心の部分が忘れ去られているような気がいたします。

5. 冤罪のメカニズム

さて、これら一連の事件を通じまして浮かび上がってまいります構図は、ある種の冤罪事件の発生いたしますメカニズムでして、官僚組織に害が及びそうになりますと、身代わりの真犯人を立てようといたします検察の行動パターンであり、それを後押しするマスコミのあり方、なのですね。

まず事件が起こりますと、真犯人を探し出せとの圧力が検察にかかることは当然であり、新聞がそのような主張をすることも当然といえるでしょう。しかし、その結果、手近な人間を犯人に仕立て上げたとき、これにあっさり乗ってしまうマスコミにも、少々、問題があります。

魚住氏は、かつて共同通信社に所属していた、マスコミの人間として、このようなマスコミのあり方を糾弾しているのですが、これは単に、現在のマスコミ機構に、官庁を敵に回して記事を取れるだけの機能がないが故の悲劇であって、ないものねだりのような気がいたします。まあ、ふがいない、といえばふがいないのですが、、、

それよりも大きな問題は、ほとんど無実のものをあたかも重罪犯のように取り扱う検察庁のあり方でして、それを裏で動かしている自民党の権力機構や、互いにかばいあう官僚のあり方なのですね。

姉歯のケースでは、実のところは微罪しか犯していないヒューザーその他が極悪人扱いされましたのは、国土交通省の失策を隠すためでして、その際のニュースソースは大部分が国交省であったわけですし、経済犯罪における冤罪事件も、手のつけ難い海外ファンドの代わりに、すぐにぼろを出しそうなホリエモン他が代役を務めさせられた、というところでしょう。

政治の世界となりますと、橋元氏の代わりに村岡氏を逮捕する。さすがにこのあたりとなりますと、新聞も簡単にはだまされなかった、という印象を私は受けておりますが、少なくとも、検察の意図は、この闇献金を放置するわけにもいかず、さりとて橋元氏をしょっ引くのは少々恐ろしい、というところにあったのでしょう。

6. 公務員の情けない現状

それにしても、最近の公務員のあり方をみておりますと、あまりにも情けない状況にある、といわざるを得ません。そもそも、公務員は、一部の業種に比べれば劣りはするものの、全国平均でみれば手厚い処遇を受けております。少なくとも、今日におきましても、公務員を目指す若者は少なくなく、その多くが安定した有利な職業として、公務員をみなしております。

で、その公務員、官僚という立場の魅力が、ただただ、経済的においしい職場であるから、というのは少々いただけません。同書の著者は「ノブレスオブリージュ」という言葉に否定的な印象をもっているのですが、これは何も、エリート意識、ということではなく、権限をもつ者の果たすべき義務、というように、広く解釈すべきであると私は考えております。

この権限、公務員なら、許認可権もありますし、検察の判断も、権限の一つ。民間におきましても、役員、管理職など、職業上の権限もありますし、学者や技術者の判断といった、それぞれの才能の発露といえるような事柄にしても、ある種の権限であるわけです。

こういった権限をもつものが、その立場に、忠実に職務を果たすこと、これがノブレスオブリージュであり、これを貫いてこそ、世間の人がそれらの職業人を尊敬し、その判断を尊重するのですね。

それが、公務員は自らの懐を肥やすことにのみ執着し、検察は自らの立場を保つために、事件の真の原因たる者を見逃し、微罪の者をその代わりに検挙する、などということになりますと、誰も官僚の判断を尊重せず、法を遵守しようなどということは考えなくなります。これこそ国を乱す原因であり、これらの官僚のモラルの荒廃が国を滅ぼす元となる、といっても過言ではないでしょう。

7. 役人を見たら泥棒と思え

逆に、それこそが官僚の本質である、などという認識が国民の一般的認識となってしまいますと、公務員の犯罪的行為をいかに防ぐか、という方向に法制の主眼は向けられることになり、行政の効率性はきわめて悪化するでしょうし、公務員自身にもあまり面白いことにはなりそうにありません。

なにぶん、役人を見れば泥棒と思え、などという認識が一般的になりますと、公務員の仕事は、使命感から主体的に業務を遂行するのではなく、監視されて義務的に業務を遂行する形になるしかなく、自らの仕事の面白さを奪われてしまうでしょう。まあ、社会保険庁などは、そうなってあたりまえ、と思いますが、、、

まあ、ただ一つ救われていることは、裁判所の判断が、現在のところはまともであること。ただこれも、いつどうなるかはわからない、という一抹の疑念を抱かせる、同書第8章の内容ではあるのですね。

さて、この先の日本、どうなってしまうのでしょうか。その中で、個人が人間らしく生きる道は、果たしてあるのでしょうか。まあ、一ついえますことは、これらの魑魅魍魎とは関わらないこと、が第一でしょうし、そうしていてもきちんと生きていけるような、経済的基盤を作り上げること、これがもう一つの基本戦略でしょう。

私自身がそうありたいと願うとともに、本ブログも、そのような道を多くの方が歩めるような、一つの方向性を提供するものでありたいと願っております。おそらくその解は、「太ったソクラテスであること」だと思うのですが、、、

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