「外界、主観、客観」を「情報」で考える

本日は、科学哲学を「情報」という切り口で考えてみることといたしましょう。

自然科学の元となっておりますのは「観測」という行為です。

ニュートン力学は、それに先立つケプラーの法則を受けたものですが、その基礎となっておりますものがティコプラーエの観測データ。これに限らず、およそいかなる物理法則も、さまざまな観測結果を説明するものとして生み出されているのですね。

で、観測という行為を情報という切り口で考えるとどうなるでしょうか。

たとえば天体観測の場合、星の位置関係は人が存在する以前から、自然界に元々備わっていたはずです。つまり、天体の位置関係に関わる情報は、外界の物自体に固定(記録、といった方がよいでしょうか?)されております。

さらには、天体の位置関係が刻々と変化するということは、この情報も変化していることを意味するのですが、その情報変化を惹き起こしているのは天体自体でしかありえません。すなわち、天体の位置関係に関わる情報処理を行っているのは、外界の実在である、ということができます。

人が天体観測を行いますと、天体の位置関係に関わる情報が、外界から観測者の主観に移動いたします。いうなれば、天体の位置関係という情報が、外界の実在から観測者の脳にコピーされる、というわけです。

観測者は、自らの頭でこの情報をいろいろと操作いたします。まずは、望遠鏡の角度と時刻を記録し、星々の輝きを写真乾板に写し取ります。ティコプラーエの場合ですと、彗星の軌道を観測していたわけですから、あらかじめわかっている恒星の位置から彗星の位置を計算し、これが時間と共にどのように変化するか、なんてことをまとめるわけですね。

このようなデータがある程度そろいますと、これを学会誌に発表する。つまり、その情報は大量に複製され、流通されるわけです。その結果、情報は学会誌の読者に共有されます。この読者というのは、まずは天文学者ですが、学会誌は図書館にも保管され、誰でもこれを読むことができます。

また、それが大きな発見であれば新聞雑誌がこれを伝えます。結局のところ、個人が公にした情報は、人類全体が共有する情報となります。これが「共有された主観」すなわち「間主観性という意味での客観」というわけです。

情報処理という観点から考えますと、主観段階での情報を処理しているのは、科学者個人の脳が中心なのですが、メモや電卓、といった道具も使いますし、最近であればパソコンなどの情報機器も使用するでしょう。その情報が個人の管理範囲にとどまる限り、これらの情報処理は主観というレベルでの情報処理、ということになるのでしょう。

一方、最終的な客観(間主観性という意味での)段階になりますと、この情報を処理しているのは、学会という学術機構であり、放送・出版などの社会システムになります。これらのシステムは、多くの人々によって構成されているのですが、単なる人の寄せ集めというだけの存在ではなく、システム独自のさまざまな規約や道具立て(建物やオフィス、機材など)もこのシステムの中に含まれています。

難しいのは、社会システム、というものが一枚岩ではないことでして、社会が重層構造となっている、という事実です。

天文学の世界であれば、科学者を取り巻く社会として、まずは、研究室があり、天文台や研究所などの独立した組織があります。その外部に、国内の学会があり、国際的な学術社会があります。

さらには、科学者個人は、単一の学会に属するだけでなく、いくつもの学会に属しており、組織の一員として行動する以外にも、他の人々と個人的なつながりを持っており、最近ですと、ホームページやブログを持っていたりもいたします。こうなりますと、人々の集団というものは、大変に入り組んだ、複雑なシステム、ということになります。

とはいえ、この中間段階をブラックボックスとみなすこともできるわけでして、人類全体で共有された情報としての「客観」、個人の持つ情報でありますところの「主観」、そしてこれらが観測を行って得る情報の源となります「外界の実在」という、3つの情報処理システムを考えればよい、ということにもなります。

さて、カントは、外界の実在などを人が知ることはできない、と述べます。これは、外界に関する情報が全く人に伝達されない、という意味ではなく、カント自身、外界の実在は人々が観念を抱く原因となっている、と述べております。

外界の実在がどの程度の情報量を保持しているか、ということを考えますと、これは実に膨大な情報量ということになります。

たとえば、一個のりんごに含まれる情報量を考えてみましょう。

まず、アボガドロ定数というものがありまして、これは、炭素12グラムに含まれる炭素原子の数が6の後に0を23個つけた数である、というのですね。6掛ける10の23乗というわけです。

りんごの重さは数百グラムありまして、主成分は炭水化物。すなわち、水(H2Oの比率での水素原子と酸素原子)と炭素がおよそ1:1の比率で含まれております。大雑把に計算して、これらの原子の数は、総計で10の25乗ほどあることになります。

で、これらの原子は、互いに特有の位置関係に配置されており、これらの位置関係は、天体の位置関係と同様、固有の情報を持っているはずです。

個々の原子の位置関係の情報は、10ビット(1024通りの状態)で表すことはとても無理でして、これをかりに100ビット(10の2乗ビット)の情報量であるといたしますと、りんご一つが持っている情報量は全体で10の27乗ビット、と推定されます。

120GB程度の容量のハードディスクは今日一般的ですが、これはおよそ1000ギガビット、10の12乗ビットということになりまして、これを10の15乗台ほど集めますと、やっとりんご一個の持つ情報が記憶できる、ということになります。

そういえば、ハードディスクの媒体に記録する際、0.1ミクロン角ほどの領域に1ビットが記録されているのですが、このサイズは原子のサイズの約1000倍。これを立方体といたしますと10の9乗ほどの原子が一つのビットの記録に関わっています。

ハードディスクドライブの構成要素のうち、磁気記録に使われます磁性体の比率はごくわずかであり、この磁性体に含まれる原子の数がりんご1個に含まれる原子数の100万分の1といたしますと、およそ10の15乗という必要台数もうなずけるところとなります。

長々とわけのわからない数字を扱ってまいりましたが、要は、自然界の持つ情報量は実に膨大であり、人が知りえる情報はそのうちのごく一部に過ぎない、ということを言いたいわけでして、カントが、外界の実在を人は知りえない、といたしますのは、情報量から考えまして非常に良い近似となっている、といえるのではないか、ということを言いたいわけです。

さてこの際、「情報」という視点から「外界、主観、客観」の関係を眺めますとき、客観とは「間主観性上の客観」でしかありえず、科学哲学もこの上に構築するのが正しいのではないか、ということも、あえて指摘しておきましょう。

それにしても、これだけ「情報」というものが注目されている今の時代におきまして、哲学という学問を情報という視点で再検討するという行為があまり行われていないのは、実に不思議な感じもする次第です。この世界、ひょっとすると「学術的な宝の山」であるのかも知れませんね。