「哲学と現実世界―カール・ポパー入門」を読む

本日は、ブライアン・マギー著「哲学と現実世界―カール・ポパー入門」を読むことといたしましょう。

ポパーについて

ポパーは、「反証可能性」を科学的であることの要件とする反証主義を提唱したことで知られる、卓越した科学哲学者です。

反証主義の一例に、一般相対性理論の予言したとおりの光線の湾曲が日蝕の際の太陽付近の星の位置から確認されたことで、この理論が広く世に受け入れらたことがあげられます。この場合の「反証可能性」は、計算と異なる位置に星が観測されることでしたが、そうはなりませんでした。

ポパーはまた政治思想の分野でも活躍された方で、彼の主著「開かれた社会とその敵(第1部)(第2部)」におきましては、マルクス主義やプラトンの思想にみられる独裁政治を批判し、民主主義を高く評価しております。

世界を理解するための三つの世界

ポパーにつきましては大昔のこのブログでも「乱読」しているのですが、今回ポパーに改めて注目いたしました理由は、最近のブログで、3つの世界について言及したことによります。

そこでは、アリストテレスのいう「形相」に相当いたします「情報」が、なにに固定されており、なにによって処理(変形)されているのかという点に着目いたしまして、次の3つの世界を考えるべきであるといたしました。

世界R(自然界):外界の物体そのものに情報(形相)は固定されており、人とはかかわりなく、物体そのものがその物理法則にしたがって(自然に)運動を続ける世界。

世界C(認知の世界):個々の人によって認知された世界であり、人の脳(の精神的機能)による情報の固定と処理により成立している世界。

世界S(普遍妥当の世界):社会的に真であると認められた世界であり、人間の社会システムによって、これに関わる情報が処理、固定されて成立している世界。

このような世界認識は、ポパーが唱えております3つの世界論と極めて近く、ポパーの3つの世界論との違いを明確にしておく必要があると感じました。しかしながら、これまでに読みました書物だけからは、ポパーの3つの世界論の趣旨が今ひとつ不明確であるように、わたしには思われました。

今回取り上げますブライアン・マギーの「ポパー入門」は、3つの世界論につきましても詳しく論じられております。そして、これによりますかぎりでは、ポパーの3つの世界論はわたしの考えております3つの世界論とは少々趣を異にしております。

ポパーの三つの世界

この部分は重要なところですので、少々長いですが、同書の3つの世界論を紹介する部分を以下に引用することといたしましょう(段落を一部補っております他、注目点に色付けしました)。

生命の進化、人間の創発〔出現〕、文明の発達についての説明をする間ずっと、ポパーは客観的な物質的事物の世界(これをポパーは「世界1」と呼ぶ)や主観的な精神の世界(世界2)だけでなく、第三の世界〔世界3〕、すなわち精神や生物による必ずしも意図的ではない産物だが、いったん生み出されるとそれらから独立して存在する客観的構造をもった世界という概念を利用する。

動物界におけるこの世界3の先駆的な形態は、鳥や蟻の巣、すずめばちの巣、みつばちのす、くもの巣、ビーバーのダムなどであり、これらのものはいずれも問題解決のために動物が自分の身体外に作り出したひじょうに複雑な構造物である。

この構造物自体が動物の環境のなかでもっとも重要な部分となり、動物のもっとも重要な行動のほとんどがこれに向かっておこなわれる―実際、動物は普通、このような産物的構造のなかで生まれるのであって、その場合、この環境は生まれた動物が母親の体外で最初に経験する物理的環境をなすものである。さらに、動物界の構造物の一部は抽象的である。例えば、社会組織の形態やコミュニケーションの型などがそうである。

人間の場合にあっては、環境に対処するために発達させた生物学的特徴の一部が、その環境をもっともめざましいやり方でつくり変えた。人間の手はその一例にすぎない。また人間の抽象的構成物―言語,倫理,法律、宗教、哲学、芸術、制度など―は、規模と精巧さの程度において人間のおこなった物理的環境のつくり変えにつねに匹敵した。

人間の産出物は、動物のそれと同じか、あるいはそれ以上に、環境において中心的重要性を獲得し、人間が自分を適応させなければならぬもの、それゆえ人間をつくり上げるものになった。

これらの産物が人間との関係において客観的な存在としてあるということは、これらの産物を人間が検討し、評価し、批判し、探求し、拡張し、修正し、大変革し、さらに、そのなかに実際まったく予期せぬ発見をすることができるということを意味した。そしてこのことは、人間のもっとも抽象的な産物、例えば数学についてもあてはまる。

このあと筆者はポパーの言葉を次のように引用いたします。

わたしは、自然数の系列が人間の構成物であるとするプロウアー〔オランダの数学者〕に賛成する。しかし、われわれがこの自然数の系列を生み出すのだけれども、その系列は翻ってそれ自身の自律的な問題を生み出す。

偶数と奇数の区別は、われわれによって生み出されたものではない。それはわれわれの創造物の意図せぬ、不可避的な結果である。素数ももちろん、まったく意図せざる自律的で客観的な事実である。これらの場合において、われわれによって発見される多くの事実があることは明らかである。ゴルドバッハの推測のようなもろもろの推測がある。

そしてこれらの推測は、間接的にはわれわれの創造の対象にかかわるものであるけれども、直接的にはわれわれの創造物からともかくも生まれ出た、そしてわれわれが制御を加えたり影響を及ぼしたりすることのできぬ、問題と事実とに属する。

それらの推測は動かしがたい事実であり、それらについての真理はしばしば発見することが困難である。このことが、第三世界〔世界3〕はわれわれによって創造されたものであるけれども大幅に自律的であると私がいう場合に意味したことを例証する

私のとは異なるポパーの3つの世界

ポパーの世界3も、わたしの世界Sも、人のコミュニケーションによってなる社会システムを含みます。しかし、ポパーの世界3は、人が生み出した自律的事物のすべてを意味し、養老孟司氏のいう「脳の産物」に相当いたします。

ポパーの世界3は、客体、すなわち観察の対象です。わたしが考えております世界Sは、それ自体がある種の精神的機能をもち、人の脳が思考する主体として振舞うのと同様に、社会という情報システムそれ自体も主体として振舞う、という点で大きく異なるように思われます。

「世界」は、情報処理システムの中に作り上げられた世界であり、その上に論理が展開される基盤としての作用も果たします。自然界(世界R)が自然現象の基盤となるように、主観(世界C)は己の世界認識の、社会(世界S)は人類の知識体系の基盤となります。

数学的知識は、確かにわたしの理解によりましても世界Sに属する概念です。しかしそれは、自然数がもつ自律的性質、つまり「人によって生み出されたものでありながら人の予想のつかない法則性を持つ」からではなく、それが社会システム上に固定された情報に属するからです。

数学的知識の一部は、世界C、すなわちポパーの世界2にも属しております。これは個人の精神(個体の脳)が世界Sに固定されておりました情報の一部を、世界Sとのコミュニケーションの過程(学校教育など)により世界Cに取り込んだからに他なりません。

蜂や蟻の巣は、確かに昆虫の社会的行動により形成されたものであり、今日では、蟻や蜂の集団に「群知能」と呼ばれる群れそのものが持つ知的働きが認められております。これは人間社会がそれ独自の知的働きをする(=世界Sを形成する)とする仮説をサポートする事実ではあります。

しかし、わたしが注目いたします世界Sは、あくまで人間社会の情報処理機能が生み出す精神的な働きであって、蟻や蜂の群れが生み出す精神的な働きとは無縁の存在です。なにぶん、3つの世界を論じております理由は、人の世界認識を論じることが目的なのですから。

論理体系の基盤として3つの世界(R, C, S)を考えるとき、概念的存在である「生命」や「心」さらには「神」も世界Rの中にはなく、世界Cおよび世界Sの中に存在する、と考えるしかありません。

世界Cの内部には世界Rの不完全なコピーがあり、人はそれを世界Rであるとみなしているのですが、人が世界Rを世界Cの内部に作り上げるとき、本来は世界Rには存在しないはずの「概念」をこれに付随させてしまいます。この結果、「世界Rに心などの概念的事物も存在する」との誤解を人は抱くことになります。

世界Rに存在するものは、脳の働きであり、完全に物理法則にしたがって複雑な挙動を示す物体にすぎません。しかし人はそれを価値あるもの、心、とみなすのであり、単なる物体であるとみなすべきではないと考えております。しかもこれはまったく正当であると、わたしは考えております。

人間社会は世界Sの論理に従って運営されており、普遍妥当性を満足する世界Cの論理(主観)が世界Sの論理(常識、通説)になります。人間社会にとりましては、身体機械論に相当いたします世界Rの記述(自然科学)だけがすべてではない、というわけです。

実はデカルトも、延長としての実在と、人間精神が見出す属性とを区別しておりますが、松果体云々の議論から心身二元論の祖とされております。ヴァチカンが猛威をふるった時代背景を考えますと、この部分のあいまいさをデカルトの責に帰することは酷であるように、わたしには思われます。

さて、そろそろ楽天ブログの文字制限なのですが、またしても本の内容からかけ離れてしまいました。ポパーの思想に関しましては、ポパーも多くの書物を書いているのですが、今ひとつ理解しにくい部分が(少なくともわたしには)多く、このようなよい解説書は非常に参考になります。

著者はポパーの信奉者であり、本日は省略いたしましたが、その政治的な主張は非常に納得のいくところです。さらには、今日の科学哲学の主流でもあります論理実証主義に反対していることなど、なかなかに面白い思想ではあります。

ただ、ポパーがあまりにも碩学であるだけに、この思想から一歩踏み出すことがなかなかに難しく、ポパーの思想などに触れてしまいますと、もどかしい思いを抱くのもまた事実です。つまり同書は、まだまだ修行が足りないことを読者に気付かせてくれる一冊である、といえるでしょう。