日本経済のこれまでとこれから

このブログでは、これまでも、現在の日本が抱えております経済問題について論じてまいりましたが、本日は概観的にこの問題を論じてみたいと思います。

日本経済を論じる際には、太平洋戦争で焼け野原となりましたわが国がなに故に奇跡ともいえる復興を果たし、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどと呼ばれるに至ったかという点と、なぜそれがだめになってしまったかという点が、最大の疑問点といえるでしょう。

焼け野原からナンバーワンまで這い上がる能力があるなら、今日のこの経済危機を切り抜けて、再び奇跡の復興を果たすこともできるはずであり、いかにすればこれが可能かという解答は、過去の日本の経済発展の歴史の中に隠れているはずです。

日本の産業経済史は10年単位で区切ることができます。

まず1940年代は太平洋戦争とその後処理の時代であり、1945年の終戦後も混乱の時期が続きました。この混乱から日本経済が回復するきっかけとなったのが、1950年に勃発いたしました朝鮮戦争でした。

西側諸国が朝鮮戦争を有利に進めるため、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結され、わが国が独立国として認められると同時に、日米安保条約の締結、警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されました。

1950年代初頭は「朝鮮特需」により、特に繊維産業、金属産業などを中心に、わが国の産業が急回復いたします。1950年代は政府が輸入を管理しており、工業製品の輸入には厳しい制約がありました。これに米国を中心とする産業界から批判が高まり、1960年から貿易自由化に踏み切ります。

1960年当時のわが国の自動車・電機産業は、米国に比べて規模も技術もはるかに劣っており、貿易自由化はこれらの産業の壊滅を招くリスクも意識されておりました。このような背景の元に、これらの業界は、徹底した生産合理化と技術開発を進め、国際競争力の向上を図りました。

1970年代に入りますと、環境・資源・エネルギー問題が表面化いたします。わが国の産業界は、この危機に迅速に対応し、この後の国際競争力を確固たるものといたします。

1980年代のわが国は「バブル景気」の時代であり、円高と低金利が異常な投資熱を呼び起こした時代でした。この元にありましたのが、わが国の製造業の国際競争力の高まりでした。

1989年12月、三重氏を新総裁に迎えました日銀は引き締め政策に一転、翌年よりわが国は後に「失われた10年」と呼ばれるようになります不況に突入いたします。ここで大きな問題となりましたのが多額の不良債権を抱えた金融機関です。

2001年、小泉政権が誕生、竹中平蔵氏の元で金融改革が強力に推し進められます。大手銀行はメガバンクに再編され、欧米の新しい金融工学の導入も図られます。しかしながら、当時は輝いてみえましたこれらの技術も、欧米も金融危機に陥りました今日では、色あせてみえるのが現状です。

さて、今日のわが国の産業界が抱えております問題といたしまして、ソフトウエア、ネットサービスなどの新しい産業が伸びてこない、という問題が指摘されております。

1981年のIBM-PCの発売以降、パーソナルコンピュータが広く使用され、マイクロソフトのウィンドウズが普及いたします。1990年代にはローカル・エリア・ネットワーク(LAN)が普及し、インターネットが使用されるようになります。1994年にYahooが、1998年にはGoogleが創業されます。

しかしながら、これらの新しい動きは、そのほとんどが米国のベンチャー企業によって進められ、わが国の産業界は国際市場をリードすることができておりません。

1960年代から1970年代にかけて急成長いたしましたわが国の電機・自動車産業にいたしましても、新興国の追い上げが急であり、今のところは国際競争力を確保しておりますが、この状態がいつまで継続できるかは保証の限りではありません。

過去の蓄積に支えられて経済力を維持し続けているものの、先の見通しが立たないのが現在のわが国の産業界であり、1960年の貿易自由化と同じように、皆が危機意識を抱いても不思議ではないのですが、その危機感は表面化しておりません。

その理由といたしまして、わが国の各界の指導的立場にある人々には、なにが問題であり、どうすれば良いのかわかっているのだけれど、しかし解決しようとは思わない、という困った現実があるのではなかろうか、とわたしは考えております。

指摘されております問題点の一つとして、「わが国のホワイトカラーの生産性が低い」という点があげられております。ホワイトカラーとは、知的労働者であり、経営管理に携わる人々から、ソフトウエアを作りますプログラマーやエンジニアも含まれまして、そうであるなら、新しい産業分野でわが国が競争力を得られないのもううなずけるところです。

しかし、知的労働者全般の生産性が低いということになりますと、その影響は全産業に及ぶ、重大な問題であるようにわたしには思われます。

1960年代にわが国の産業界が急速に国際競争力を獲得した理由の一つに生産ラインの生産性の改善があげられます。トヨタのかんばん方式やQC活動などもその代表的な試みの一つでしょう。ソフトウエアやネットサービスなどの新しい事業分野においては、知的労働のウエイトが高まっており、この分野で国際競争力を獲得するためには知的労働者の生産性を高めることがまず必要です。

知的労働に対する評価といたしまして、成果主義を唱える企業が増加しています。しかしこれは、報酬に差をつけるという点が主眼であり、その評価に際しても恣意的であるといった種々の問題が指摘されております。また、生産性という観点はほとんど省みられておりません。

では知的労働者の生産性は評価不能であるのか、といいますとそんなことはありません。どんな管理者も、配下のエンジニアの生産性を把握しているはずで、そうでなければスケジュールも予算も立てることができないはずです。

しかしなぜ個々のエンジニアの生産性が意識に上らないかといえば、フロイトの言うような、「心理的抑圧」がそこに作用しているのではなかろうか、とわたしは考えております。

すなわち、組織を構成する人々一人一人の知的労働生産性は、その組織に属する多くの人が把握しているのですが、これが意識に上ることを恐れて、無意識のうちに押し止めていると考えることができます。スケジュールや予算を無意識の知識を用いて立てる一方、生産性という概念は自らの身に災いを及ぼすリスクゆえに抑圧されて意識には上がらない、というわけですね。

フロイトによりますと、精神的な抑圧はそれに気付くことにより解消されるとしております。知的生産性に対する意識が抑圧されていただけであれば、これに気付くことで評価可能となります。

もちろん中にはそれでも評価できない人もいるはずです。他人の生産性を評価する能力が元々ない人がいたところでなんら不思議はありません。そういう人は、他人を評価する立場に就けるべきではない、というだけの話です。

この仮説が正しいといたしますと、わが国が新しい産業分野で競争力を発揮するための処方箋は非常に簡単になります。すなわち、知的労働者の生産性を高めればよい、というわけです。もちろんこれに先立って、知的労働者の生産性を測定する手法も確立しておかなければなりません。

ソフトウエアの世界では、プログラマの生産性は比較的よく知られております。ソフトウエアの複雑さはファンクションポイント法などで客観的に計量することができますし、それにかかりましたプログラマの時間もわかりますから。

プログラマの生産性の、個人間の開きは30倍近くあるといわれております。もちろん、高い生産性を有するプログラマはほんの一握りで、大多数のプログラマの生産性は最低の人の1~5倍程度の範囲に集中しているのでしょう。

そうなりますと、最低レベルの10~20倍の生産性を持つプログラマを高給(ただし生産性の違いほど高くはない)で遇するというようなことをいたしますと、そのソフトウエア会社は低いコストでソフトウエアを作ることができます。

このようなことを実際におこなっておりますのがGoogleでして、通常のプログラマの年俸が300~600万円程度である中、Googleは年俸2,000万円でプログラマを募集しております。かりに4倍の年俸を支払っても、他社に比べて8倍以上の生産性を有するプログラマが集まれば、コストは半減いたします。

実際、Googleのプログラマのスキルは並大抵ではないといわれております。もしもGoogleの競争力の基盤が、このようなビジネスモデルの上に成り立っているといたしますと、これを追撃するのは並大抵のものではありません。

逆に、同様なビジネスモデルを採用いたしますと、特に、知的労働者の生産性がものをいいますハイテク分野、情報、ネットサービスの分野では、圧倒的な競争力を得ることができるはずで、そのような企業形態を作り上げることが、これらの分野でのわが国の競争力確保の要となるのではなかろうか、と考えております。

経済は、生産と流通(交換)と消費が基本であり、その潤滑財的役割を果たすのが貨幣です。人の労働により価値を生み出すのが生産であり、生み出された価値をそれを必要とする人のところに届けるのが流通であり、その価値を消費することで人は生活いたします。

生産性が低い人々が多くの分配にあずかる社会制度となりますと、本来高い生産性を発揮できる能力のある人々もより多くの分配を得ようとする結果、社会全体の生産性が低下いたします。その結果、国際競争力も低下いたしますし、国民の平均的な生活水準も低下することになります。

上の議論では、「知的労働者」と呼んでまいりましたが、経営者にせよ、官僚にせよ、その知的能力においてわが国の経済活動に貢献していることに変わりはありません。この議論で言うところの知的労働者は、これらの人々にも拡張して考えることができます。

今日のわが国の経済問題は、つまるところこれらを含めた知的労働者の生産性が低下していることであり、これを高めること、すなわち組織制度全体の効率を高めることが喫緊の課題であるということができるでしょう。

最近のアエラは、官僚の天下り先法人に年間14兆円も流れていることを伝えております。正しいラジオ体操を普及する公益法人という、得体の知れない存在もレポートいたしております。

また、マスコミの特権的立場の濫用につきましても、朝日新聞がテレビ局の下請けに対する特権的地位の濫用に自主的ルールを設ける旨を報道しておりますが、その内容をみますと、通常の企業がこんなことをおこなっておれば、とうの昔にマスコミに厳しくたたかれたような内容です。

かんぽの宿の例を持ち出すまでもなく、政業官一体となった利権構造も、今日のわが国の社会制度のあちこちに残っていることでしょう。これらのわが国の非効率的部分、わが国に巣食う寄生虫的部分が、わが国の経済を阻害していることは論を待ちません。

民間におきましても、ホワイトカラー、エンジニア、プログラマなどの知的労働に携わる人々の生産性向上を追及するとともに、すぐれて知的労働であります行政機構の生産性向上、効率化も大いに進められなければなりません。これなくしてわが国の未来はない、といっても過言ではないでしょう。