専門職にはマイナス評価とすべき「忠誠心」と「協調性」

最近話題になっている問題に、長時間労働と過労死の問題、そして東芝の経営問題があります。これらは全然別の問題であるようにも見えるのですが、じつは根は一つであり、しかも日本の文化に根差した深刻な問題であるようにも思われます。本日はこの問題に関して議論することといたしましょう

東芝をめぐる問題から

BLOGOSに「『なぜ東芝は……』異質なものに対応できない日本企業の病理とは?~何が欠如しているのか?~ - 藤原 敬之」と題する記事があり、これにコメントを付けたのですが、ことはそうそう簡単な問題ではありません。

藤原氏は、この問題の原因は、「日本企業は連続的需要変化への対応力に長けている」が、「非連続的な異次元の製品やサービスの創造、異質のものをマネージすることは不得手」であり、その結果が海外企業の買収における失敗にも表れている。そして、この問題は「組織としての目標の明確化、組織での個々人の役割の明確化、インセンティブの明確化を図り、問題発生時には“組織・個人・報酬の三段論法”で対処への理由を説く」ことで解決される、としております。

この主張は、前半部分は確かにその通りでしょう。しかしこの解決策は、確かに買収した海外企業の経営に際してはその通りであるかもしれませんが、日本企業自体の経営に関して、この解決策がそのままあてはまるかとなりますと、はなはだ疑問です。

これに付けました私のコメントは次の通りです。

もう少し広い見方をすれば、日本社会は「イエ」社会である、ということでしょう。

江戸時代の「お家のために」が「お国のために」になったかと思えば、今日では「会社のため」にみんな奮闘努力する。その結果が、このエントリーにある、内向き社会なのですね。

内向き社会では、ローカルなものの見方が幅を利かせ、普遍的な価値観が軽視される。

この結果、これを構成する人々は、組織の内部では有能な人になるかもしれないが、異質な社会でも通用する普遍的な力をつけることができない。終身雇用が崩壊したら、みんな困ってしまうのですね。

このような状況を脱するには、ローカルな価値以上に普遍的な価値を重視すること。

技術職にせよ、事務職にせよ、個々の会社の特殊性以上に、それぞれの業務に普遍的なやり方というものがある。それを重視し、その能力に長けた者を高く評価するようにしなくてはいけません。

その極め付きがトップで、普遍的経営能力に優れたものを経営のトップに据えなくちゃいけません。そのような人を社内で育てることができれば理想的なのですが、駄目なら外部から招聘する。

こんな処方箋はわかりきったことなのですが、これを実行に移せるかどうか、それが問題、ということなのでしょうね。

つまり、問題の根本は日本文化にあり、基本的な部分から考え方を変えなくてはいけない、と私は考えているわけです。これを端的に表現した言葉が、このエントリーの表題に掲げました「専門職にはマイナス評価とすべき『忠誠心』と『協調性』」なのですね。

忠誠心と協調性のプラス面とマイナス面

もちろん、忠誠心や協調性が要求されるケースも多々あることは否定いたしません。極端な話、ベルトコンベアを使った流れ作業では、決められた作業をきちんとこなさなくてはなりませんし、一人だけ勝手なことをしたのでは、ラインが乱れてしまいます。また、作業のよくわかったリーダーの元で多くの作業員が力を合わせて作業する場合も、リーダーの指示に忠実に作業をしなくてはいけません。

しかしこれが、個々人の専門能力が要求される場合、その専門能力を発揮しようとすれば、上司や周囲の者とは異なる見解も表明しなくてはいけません。

私は長い間大手企業の研究所で勤務していたのですが、ある時外部からやってきた比較的高いポジションの方が協調性の重要性を力説されたことに強い違和感を感じたのですね。

その時すぐに心に浮かんだのは「ここは幼稚園ではないのだが」という言葉でした。実際問題として、研究所に要求されるのは他人と異なる見解なりアイデアであって、周りに合わせて行動していたのでは、研究所はその役割を果たせません。

研究者に要求されるのは、協調性ではなく独自性であり、忠誠心よりも問題発見能力が求められます。このことは、専門能力が要求される社員にも、一般的にいえることでしょう。かりにそれが上司が熱心に進めようとしている計画であっても、これに問題点が見出されたら、これを進言しなくてはいけません。

もちろん、工場勤務が長い人には、従業員は余計なことを考えず、決められた作業をしなくちゃいけない、と考えることはもっともなのですが、創造性が要求される部署でそんなことをいうのは、百害あって一利なしとしか言いようがありません。

最初に掲げたBLOGOSのエントリーで日本企業の問題とされた点も、まさにここにあるのでしょう。

このような問題は、日本企業に限られたものでもありません。たとえばこのブログの以前の記事「『晴れた日にはGMが見える』を読む」でもご紹介しましたが、GMがマネージャー職の社員に要求したのがまさにこの忠誠心であって、これを押し通して本社主導で開発した戦略車ベガが多くの技術的トラブルを抱えて失敗に終わったのも、当然の結果といえるでしょう。

最近、福島の原発事故に関して、国と電力会社の責任を問う判決が下されております。我が国の原子力発電が抱える問題も根は同様であり、忠誠心と協調性を要求した結果、問題を探り出してこれに対処する能力を失い、多くの重大な結果を招いているように私には思われます。

長時間労働という問題も根は同じ

長時間労働という問題についても近年議論が盛んになっておりますが、この問題も、根は同じであると私は考えております。

なぜ長時間労働をしなくちゃいけないかといえば、企業にとって人を増やすことが容易ではないからであって、忙しいからといって安易に社員を増やしてしまうと、暇になったときに困ってしまうからです。

つまりは、終身雇用という制度がこの問題の背景にはあります。忠誠心と協調性は、その組織の中でしか通用しませんので、これらを重視する限り、従業員の生活を考えれば終身雇用制度を続けるしかありません。

一方、専門能力は普遍的なものであって、その能力が必要な職場であれば、どの企業でも通用します。個々の社員が専門能力を高めていれば、要員が余れば他の企業に職を求めればよいし、足りない要員は他社から引っ張ってくればよい。

この場合、企業にとって予想される問題は、高い能力を持つ社員が他社に移ってしまうことなのですが、これは能力に応じた処遇をすることで解決するしかありません。逆に、高い能力を持つ者を優遇する企業であれば、社員はおのれの能力を高めようとするでしょうし、他社の優秀な人材が集まることも期待できるのですね。

以前の円高時代に、輸出関連企業が軒並み経営危機に陥り、追い出し部屋などというものが話題になったこともありました。追い出される社員も困るでしょうが、忠誠心や協調性に優れているだけの社員を大量に抱えた企業にとっても、余剰人員が深刻な問題であったことは想像に難くありません。

簡単に他社に移動できるような優れた専門能力をもつ社員であれば、多少の割り増し退職金を支払えば、喜んで他社に移ってくれたはずなのですが。

専門職の社員に、忠誠心と協調性を要求するのか、それとも高い専門能力の発揮を要求するのか、このいずれが企業にとって望ましい姿か、と問われればそれが後者であることは考えるまでもありません。

時代遅れの常識は捨てる

なぜ日本企業がこのような状況から脱却できないか、それが日本の文化に根差すものであることは冒頭の私のコメントにも書きました。

しかしこれにはさらに深い根があるのではないか、と思います。つまり、日本は稲作文明の国である、ということなのですね。

稲作は、集団作業が要求され、多くの者が協調して作業にあたらなければいけません。勝手な真似は許されないのですね。

これを長年繰り返しておりますと、それがあたりまえである、と多くの人が考えるのも当然の結果と言えるでしょう。

しかしながら、今日の企業は稲作を行っているわけではありません。

今日の企業がしなくてはいけないことは、新しい技術をものにすること。

そのためには、稲作社会であたりまえであった常識など、百害あって一利なし。

そんな常識はさっさと捨てなくてはいけません。

何でこんな簡単なことに気が付かないのでしょうか。