トーマス・クーンの「科学革命の構造」を読む

本日は、トーマス・クーンの「科学革命の構造」を読むことといたします。

なぜこんな古い本(1971年の出版)を読むかといいますと、時間を虚数として扱うミンコフスキーのやり方が、実は優れているのではないかとの疑問を持ち、こちらのエントリーにまとめを行っております。しかし、この問題は、以前のエントリー「虚数時間と地動説」で述べましたように、単に一つの学説をどうこうする問う問題以上の、学問の枠組みを変えてしまうような話であるようにも思えます。

このような問題は、クーンが「パラダイム」と呼んだものであり、この問題に取り組むヒントを探るため、まずは、クーンの問題の書を読むこととした次第です。

パラダイムと教科書

まず、同書153ページから155ページの部分を引用します。

ここでクーンは、パラダイムを変えるような新しい理論が認められると、これに伴って教科書がすべて書き換えられ、新しいパラダイムがあたり前になる、と説きます。そのパラダイムを変えるための大変な努力はすべて忘れ去られ、当たり前のこととして新しいパラダイムが受け入れられるのですね。

権威の源として、私は主に科学の教科書と教科書になぞらえた啓蒙書と哲学的著作の三つを考えている。ごく最近までは、実際に科学研究をすること以外には科学について、この三つのほかに重要な情報源はなかったのである。さて、これらの三つはすべて同じ共通点を持っている。これらはすべて、既存の問題、データ、理論、さらには書かれた時点で科学者たちが採用していた一連のパラダイムを扱っている。教科書はそれ自体、慣行の科学用語の語彙と文体を伝えることを目的とする。啓蒙書は同じことを、日常生活に使われる言葉で述べようとする。そして科学哲学、特に英語圏のそれは、完結した科学知識体系の論理構造の分析をする。......

第二章で述べたように、教科書やそれに類しるものにだんだん依存するようになるのは、いかなる科学の分野でも、最初のパラダイムが出現するや必ず伴って起こることである。本書の終章では、教科書が成熟した科学を支配する仕方が、ほかの分野とは違った展開の型を示すことを論じるであろう。ここではただ、他の分野では例のないほど、素人も玄人も知識を教科書やそれから派生する類似の文献に頼っていることを自明のこととして、論を進めてゆこう。しかし、教科書は通常科学を永続化させる教育上の武器であるが、通常科学の言語、問題の構造、基準が変われば、常に部分的に、あるいはすっかり書き換えられねばならない。つまり、教科書は一つ一つの科学革命の結果として書き直されねばならぬものであって、一度書き直されるや、革命の役割やその存在さえも教科書の中では誤魔化されてしまう。自分の生涯で身をもって革命を経験しない限り、現場の科学者も素人の教科書的文献の読者も、歴史的感覚を働かせることによってのみ、その分野に最近起こった革命の結果をとらえることができる。

かくして教科書は、研究に対する科学者の歴史感覚を矯めることによって始まり、次に矯めた所に何か代わりのものを置き換える。科学の教科書はどれも、導入部か、初期の英雄たちに触れるところで、ごくわずかな歴史を含むものである。このような歴史の引用から、学生も専門家も長い歴史的伝統に自らも参加しているような感じになる。しかし、科学者の参加感をひき起こすような教科書に書かれた伝統は、事実のところ、決して存在しないかったものである。当然の、しかも高度に機能的な諸理由によって、科学の教科書は(また、古風な科学史の本の多くも)、過去の科学者の仕事のごく限られた部分、つまり、教科書のパラダイムになっている問題や、その回答に直接役立つように見えるものだけにしか触れない。選択と歪曲によって、初期の科学者の姿は、ごく最近の科学の理論と方法における革命で科学的とみなされているようになったものと同じ、定まった一連の問題に対して、定まった一連の基準に合うように、研究にいそしんでいたように描かれる。だから、教科書やその含む歴史的伝統が、一つ一つの科学革命の後に書き直されねばならいのは不思議ではない。また、書き直されるにつれて、科学が再び極めて累積的な姿を呈するのも不思議はない。

パラダイムを変える大変さ

同書170ページ以降には、パラダイムは簡単なことでは変わらない、と説きます。これは、科学者が頑固だからそうなるのではなく、パラダイムを変えようとしない姿勢が、そのパラダイムの上で様々な問題を解決する力の源となっている、という側面もあるのですね。

コペルニクス説も、コペルニクスの死後一世紀あまりの間は、多くの賛同者をかちえなかった。ニュートンの仕事も、『プリンキピア』が出てから半世紀以上の間、特にヨーロッパ大陸においては一般に受け入れられなかった。プリーストリーは酸素理論をついに受け入れなかったし、ケルヴィン卿も電磁理論を採らなかった。宗旨替えすることの困難は、科学者自身も認めている。ダーウィンは、『種の起源』の終わりで特に詠嘆的な調子で書いている。「私はこの本に述べた見解の真理性を確保しているが……多年の間、私と反対の観点から多量の事実を見てきた練達の博物学者を説得できるとは、決して思っていない……しかし、私は将来に、両者を公平に見うる若い新興の博物学者たちに、期待を寄せている」と。また、マクス・プランクは、『科学者の自伝』で生涯を顧みて、「新しい科学的審理は、その反対者を説得し、彼らに新しい光を見させることによって凱歌をあげるものではなくて、むしろ反対者が死に絶えた新しい世代が成長し、彼らにはあたりまえになってしまう時にはじめて勝利するのである」と淋しく述べている。

この種類の事実は、別段さらに強調するまでもなく、広く知れわたっていることである。しかし、ここでさらに再評価する必要はある。かつては、科学者も人間であって、厳密な証明を突き付けられても自己の誤りを認めたがらない、という意味合いにとられてきた。私はむしろこういうような事柄には、証明も誤りも問題になっていないと論じたい。パラダイムからパラダイムへと説を変えることは、改宗の問題であって、外から強制されるものではない。創造的な生涯を通常科学の古い伝統に賭けてきた人たちが、生涯を賭けて抵抗するということは、科学的規準の冒涜ということではなくて、科学研究そのものの本質を示すものである。その抵抗の源は、古いパラダイムも最後にはすべての問題を解決し、そのパラダイムが与える箱の中に自然を押し込めることができる、という確信である。革命時にはどうしてもこの確信は頑固で強情なつむじ曲がりに見える。確かにそうであることもあるが、それだけではない。同じ確信が通常科学のパズル解きを可能にするものである。そして、ただこの通常科学によってのみ、科学者の専門家集団は、、まず古いパラダイムの視野と精度を可能な限り開発して、その上に難点を明確に示す。その難点の研究によって新しいパラダイムが発生するのである。

科学教育とパラダイム

186ページ以降で、科学教育は、余計なことが書かれていない教科書に即して行われるとクーンは述べます。教育というものはそういうものなのですが、パラダイムを変えようという動機付けはなされないのですね。

自然科学では、学生は主に教科書に頼り、大学院の三年目になってはじめて自分自身の研究を始める。科学の授業では、たいてい、大学院の学生にさえも、学生向けに特に書かれたものしか読むことを勧めない。研究論文や単行本を補助的に読ませる科目は、きわめて程度の高いものに限られ、手近な教科書がカバーし切れない材料を扱うときに限っている。科学者の教育の最後の段階まで、独創的な科学文献の代わりに教科書が系統的に与えられている。この教育方法はパラダイムがあるから可能なのである。そのパラダイムへの信頼を教えこまれ、それを変えようと志す科学者はほとんどいない。たとえば物理学の学生が、ニュートン、ファラデーアインシュタイン、シュレディンガーの著述を、いったいなぜ読む必要があるのか。これらの著作について、学生が知りたいことは、すべてもっと簡潔に、厳密に、系統的に、多数の教科書の中で要約されているのだ。

虚数時間は絶望的か

このブログではこれまで、ローレンツ変換に基づく現在の物理学の理解に代えて、ミンコフスキー流の虚数時間を採用すべきであると主張しております。そして、ローレンツ変換とミンコフスキー空間の違いは、天動説と地動説の違いに似ていると指摘しております。

実は、ローレンツ変換もミンコフスキー空間も、数式は異なっておりますが、やっていることは同じであり、単に、基本原理が多いか少ないかの違いしかそこにはありません。

でも、天動説と地動説の間にも同様の関係があり、座標系を地球上に固定すれば天動説になる。そして、天体の複雑な運動も周転円を割り当てることできちんと説明がつきます。

天動説のような(そしてローレンツ変換も同じであると私は考えているのですが)複雑な理論の問題は、自然現象の裏に潜む基本原理が見えにくくなる、という点なのですね。

力学の世界にミンコフスキー空間を導入すれば、時間は虚数的にふるまう。そして、量子力学の数式に現れる虚数項はみな時間項であるわけで、そうであるならば、粒子に波動性が生まれるのも虚数の効果であるとすれば、相対性理論と量子力学の間に一つの橋渡しができてくるのですね。

ミンコフスキー流の扱いには、もう一つ、見直されるためのハードルが低いという有利な点もあります。実は、かつて、ミンコフスキー流の扱いが一般的であった時代もあるのですね。

これは官僚的な話なのですけど、前例があるというのは強い。ミンコフスキー復活の可能性は、他のパラダイムシフトに比べれば、多少は起こりやすいのではないかと思います。

カント哲学の物理学への応用はどうか?

もう一つこのブログが主張している物理学への提案は、カント哲学を物理学の基礎部分に導入することですが、こちらはどうでしょうか。

実は、ハイゼンベルク流の観測問題に対する態度(コペンハーゲン解釈)は、今日では「状態の重ね合わせ」という(数学的にはともかくとして、物理的には)理解しがたい説明がなされているのですが、ハイゼンベルクの当初の考え方はカント流の解釈であったものと推察されます。つまり、物理学は人の精神内部にある知識を説明している、という解釈です。

これは、以前のこのブログでもご紹介しております「宇宙を織りなすもの(上)」等に述べられているほか、もう一つのこのエントリーでご紹介しましたハイゼンベルク自身の著書「部分と全体」の中でもハイゼンベルクがカント哲学に興味を示した旨が述べられており、コペンハーゲン解釈の基礎にカント哲学があったことは、おそらくは正しいものと考えています。

ただしこちらは、カント哲学自体が、西欧の思想を根底から覆す思想であり、ハイデガーもこの仕事を途中で放棄こちらも)しております。

こちらのパラダイムシフトは、おそらくは、相当に難しいのではないか、と私は考えております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です